「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年01月15日

アイルランドにとって、シンボリズムとして極めて重要な10年間

2012年はアイルランドにとって、シンボリズムとして極めて重要な10年間の始まりである。

ここでいう「アイルランド」は、主に現在のアイルランド共和国だが、現在の北アイルランドも含む。というか、ここで「重要」になってくる事実の数々は、なぜ現在、両者が別々なのか――「国境」(英語では「国」の概念を前提しない、borderという表現だが)に隔てられているのか――ということにかかわる。

それは、2012年から100年前の1912年に始まり、それから10年後の1922年に結論が出た問題だ。

1912年4月、アスクィス内閣のもと、ロンドンの英議会で第三次となる「アイルランド自治法案 the Home Rule Bill」が提出され、審議入りする。前年、議会法が改正され下院の優越が確定しており、この法案は可決・成立が有力視されていた。

こうして1800年の合同法(連合法)で「グレート・ブリテンおよびアイルランド連合王国 the United Kingdom」となった「国」の、「およびアイルランド」の部分が切り離される可能性が現実的なものとなったのだが、「連合」の維持を望む人々、つまり「ユニオニスト Unionist」たちはこれに激烈に反対した。アイルランド島においては、ユニオニストは北部に多く、彼ら北部のユニオニストたちは同年9月に「アルスター誓約 Ulster Covenant」(男女合わせて50万筆に近い署名を集めた)で自治法案への反対を、これ以上にはないくらいに明確に示した。
http://en.wikipedia.org/wiki/1912_in_Ireland

また、ベルファストのユニオニストの政治指導者たちは、自治法案の可決・成立の場合に備え、義勇兵から成るミリシア(武装集団)を結成した。このミリシアの基盤はプロテスタントの宗教勢力、オレンジ・オーダーで、この集団は翌1913年に正式に「アルスター義勇軍 the Ulster Volunteer Force」となった。(1960年代以降のUVFは、この1912年のUVFの後継を自認する組織だが、明確な関係はない。)これに応じて本格的に組織化されたカトリックの側の武装集団が、「アイルランド共和(国)軍 the Irish Republican Army」である。

かきかけ

※この記事は

2012年01月15日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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