「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2006年05月05日

On This Day: 05 May: 1981: Bobby Sands dies in prison

1981年の北アイルランドでのハンストで、初の死者が出てから今日でぴったり25年である。

まずは、ハンストとはどのようなものか、ハンストを体験した人の証言を(孫引きなのだが)。

You lose the fat first. Then your muscles start to go and your mind eats off the muscles, the glucose in your muscles and you can feel yourself going. You can actually smell yourself rotting away. That was one of the most memorable things for me: the smell, the smell of almost death from your own body... Your body starts to eat itself. I mean that's basically what happens during the hunger strike, until the point where there's no fat left, no muscles left, your body then starts to eat off your brain. And that's when your senses start to go. Your eyesight goes, your hearing goes, all your senses start to go when the body starts to eat off the brain.

-- Brendan Hughes, 'Dying for Ireland', Insight, UTV, 27 February 2001 (from Justin O'Brien, "Killing Finucane", Gill and Macmillan, Dublin, 2005, p.39)


こう証言するBrendan Hughesは、1980年10月から12月にかけて、獄中でハンストを行なったひとりである。より正確には、当時この刑務所内のIRAのOfficer Commanding(総司令官:当時のIRAには軍隊式階級があった)だった。

ハンストに入ったブレンダン・ヒューズの後を受けてOCになったのが、ボビー・サンズである。

2006年5月5日は、このボビー・サンズが死んでから25年目にあたる。彼が獄中で餓死したのは27歳のときで、生きていれば52歳だ。

BBCのOn This Dayの記事:
On This Day: 05 May: 1981: Bobby Sands dies in prison
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/may/5/newsid_2728000/2728309.stm

これは当時の記事である。当時の北アイルランド担当大臣、Humphrey Atkinsのコメントを読むと、当時の英国政府(サッチャー政権)のスタンスが非常によくわかる。

つまり「勝手にハンストして勝手に死んだ」のだ、と。

この点の評価は実際難しいものだろう。当事者でも何でもない私には己れの考えなど持ちようもなく(英国政府の考えもどうかと思うし、ハンガーストライカーが「正しかった」とも思わない)、何があったかを調べて書くしかできない。

資料として、書籍のほか、下記を参照した。
Key Events - The Hunger Strike of 1981, CAIN Web Service (Queens University, Belfast)
IRISH HUNGER STRIKE 1981
HUNGER STRIKE COMMEMORATIVE WEB PROJECT
1981 Irish Hunger Strike, Wikipedia
Hunger Strikes and Death of Bobby Sands, BBC - History

リパブリカンによる襲撃があった現場近くで、銃器所持の現行犯で逮捕されたボビー・サンズは、懲役14年の判決でメイズ・プリズン(ロング・ケッシュ・プリズン)で服役していた。(この襲撃とサンズの持っていた武器に関係があるのかないのかは、いろいろ読んでもわからない。というかそこまで書いてあるものが見つからない。)

1981年3月1日、この刑務所でボビー・サンズはハンストを開始した。それから66日目に彼は息絶えた。

当初、サンズのほかにハンストに参加していたのは3人だったが、2週間に1人ずつというような形、また誰かが離脱したら代わりに誰かが入るという形でのハンストだったため、サンズの死後もハンストに参加する人は増えた。ハンストの人数が多くなるにつれ、刑務所の外でも「ハンストへの回答」が拡大していった――「暴力」、つまり「武装闘争」「我々の戦争」が。

実は前年にもハンストは行なわれていた、2度のハンストに参加した人数は合計で53になる。うち10人が獄中で餓死。10人すべてが1981年3月に開始された2度目のハンストでの死者だ。つまり、2度目のハンストに際し、当時の英国政府は10人を餓死するままにしておいたということになる。

当時の首相は「鉄の女」ことマーガレット・サッチャーである。彼女はハンストについてこう述べている。
On a visit to Northern Ireland, Mrs Thatcher said: "Faced with the failure of their discredited cause, the men of violence have chosen to play what may well be their last card."

...

Mrs Thatcher said conceding to the prisoners' demands "would encourage further blackmail and support for terrorism".


サンズは死んだとき、ウエストミンスターに議席を持っていた。同年3月にFermanagh and South Tyrone選挙区の議員が急死し、4月の補欠選挙で獄中の彼は政党には属さない形で(つまり、IRAとINLAの区別なく獄中のリパブリカンの代表として、またSDLPも独自候補擁立を見送ったためナショナリストの唯一の)候補となり、ユニオニストの候補を破って当選した。(サンズのあと、別の囚人2人が、アイルランド共和国の議会に当選している。)

シン・フェインなどリパブリカンは「国会議員を平気で餓死させる政府」としてプロパガンダを展開した。この件に「懲りた」英国政府は、獄中からの立候補は基本的にできないように法律を整備した。

なお、サンズの死去を受けて立候補したのは、サンズの選挙参謀をつとめたOwen Carronだった。キャロンはその後落選、銃の不法所持で投獄、などかなり波乱万丈な人生を送り、90年代に教師になり、今では校長先生をしている。

ところで、彼らは何を求めて、死ぬまでハンストしたのか。この点については、「北アイルランド問題」の根の深さと、リパブリカンのプロパガンダの強力さによってかなりわかりづらいことになってしまっているのだが、直接的には、「政治犯(もしくは戦争捕虜)としての待遇」である。具体的には次の5点が要求された。
1. The Right not to wear a prison uniform;
2. The Right not to do prison work;
3. The Right of free association with other prisoners;
4. The Right to organise their own educational and recreational facilities;
5. The Right to one visit, one letter and one parcel per week.


1980年3月26日、英国政府は同年4月1日から北アイルランドのパラミリタリー組織メンバーについての「特別ステータス」を全面廃止すると宣言した。(「特別ステータス」とは、彼らが有罪となった行為は政治的動機によるものと判断した上での、一般の刑法犯とは別の待遇のこと。つまり「政治犯としての待遇」である。)これは、70年代から始まった英国政府によるパラミリタリーのcriminalisation、すなわち彼らを「ただの犯罪者」として扱うようにするという動きの一環である。

IRAにせよINLAにせよ、当人たちとしては(自分の欲のための)「犯罪」をしているつもりはない。自分たちの行動は「政治的動機」によるものである、あるいは自分たちの戦いは「戦争」である、ゆえに「犯罪者」として扱われることはあってはならない、というのが彼らの主張であり理念であった。

当時、「パラミリタリー」と言えば事実上リパブリカン組織のことであった。むろん、ロイヤリスト側のパラミリタリー(UDA, UFF, UVFなど)も存在していたし活動もしていたが、ロイヤリストのパラミリタリー組織メンバーで逮捕され裁判で有罪となり刑務所に送られるのは、「どちらの側も」の体裁を整えるためでしかないとしか言いようのない状態、人数には大きな開きがあった。何より、UVFは基本的にずっと非合法組織だったが、UDAは1992年まで合法組織だった

すでに1976年に「特別ステータス」は一部廃止されており(新たに有罪となったものについて「特別ステータス」を認めない)、そのときリパブリカンの囚人が獄中抗議を行なっている。一般の刑法犯と同じ囚人服を拒み、毛布をかけて過ごす――the Blanket Protestである。

Blanket Protestは1980年から81年にかけても続けられており、20世紀の最後の25年のアイルランドにおいて、「抵抗」のシンボルとなった。ただしこの「シンボル」、かなり度外れたものだ。

彼らはただ裸に毛布をかぶっただけではない。Dirty Protestとも呼ばれる抗議も行なわれるようになった。Dirtyとはつまり、風呂に入らない、髪を切らない、ヒゲをそらない、そして――排泄をトイレではなく独房(といっても2人部屋だが)で行なうのだが、その排泄物を窓やドアの監視窓から看守に投げつけた。窓がふさがれるとこんどは、独房の壁などに排泄物を塗りつけた。(ちなみにこれは、女性囚人の刑務所でも行なわれていた。女性には排泄物だけじゃなく経血もあるので、男性の刑務所よりさらにすさまじいことになっていたという。)

とても正気の沙汰とは思えないが、この行動には理由がある。囚人は房を出ると看守(screwと呼ばれる)から手ひどい暴行を受けることが日常茶飯事だった。いや、それが「手ひどい暴行」の範囲だったのかどうかも精査を要するような内容である。(トイレから出てくるたびに肛門や口に指をつっこまれ、何か隠していないかを調べられるなどしていた。もっと具体的には、過去記事参照。「アブ・グレイブ」が決して特異なケースではないことがよくわかると思う。)

こういうことがあったので、囚人たちは「房を出ないこと(房に閉じこもること)」を始めたのだ。

彼らの「うんこ攻撃」のせいで刑務所のリパブリカンのウィングは看守もろくに寄り付けないほど衛生状態が悪化した(んな程度じゃ済まないが)が、同時にこれは当然「自爆」でもあり、囚人たちも健康を害した。刑務所側は消毒を行なうなどしたが、間に合うものではない。

同年夏、彼ら囚人の代弁者が欧州人権法廷に訴えたが、「勝手にやっていることだ(self-inflicted)」として、訴えは却下された。そして1980年10月27日、メイズで第一回目のハンストが開始された。当初の参加者7人。

同年12月15日にはメイズおよびその他の刑務所で新たに23人がハンストに参加した。そのころには最初からハンストしていたショーン・マッケンナは死に瀕しており、他の6人も病院棟に送られていた。冒頭に引用したブレンダン・ヒューズが「自分の体が腐っていくのがわかる」といっているのは、この頃のことだ。

同月17日、カトリックの聖職者がハンストの停止を呼びかけ、18日には正式にハンストが中止された。開始から53日目のことだった。このときは、死者は出なかった。

(なお、ロイヤリストもこのときリパブリカンとは別にハンストを行なっていたという。「政治犯としての待遇の要求」は、セクタリアン・ディヴァイドを超えて、共有されていた。これは後に「政治犯の刑務所内での自治」につながっていく。)

1980年秋のハンストが死者なく終わったのは、英国政府が「譲歩した」からであった。リパブリカンとの秘密裏の交渉を経て、英国政府は、彼ら囚人たちに「civilian clothesの着用」を認めたのである。

翻訳や言語学の関係の人はここで何かに気づくかもしれない。

囚人たちが要求していたのは、「prison uniformを着ない権利」である。英国政府が認めたのは「civilian clothesの着用」である。相互に矛盾はない。しかし盲点がある。

囚人服の代わりに囚人たちが着用を許可されたのは、「私服 (their own clothes)」ではなく、「刑務所が支給する平服(civilian clothes)」であった。

『ホテル・ルワンダ』のテリー・ジョージ監督のフィクショナルな映画、Some Mother's Son(1996年)でのこのシーンがとてもわかりやすい。(この映画はDVDになっていないしVHSは廃盤だが、中古ソフトを扱っているアメリカのサイトで探せば、アメリカ版を中古で入手することができる。アメリカ版のVHSは日本で問題なく見ることができる。ただしもちろん字幕はない。)

映画の中で、ボビー・サンズら囚人たちは「要求が通った!」と喜ぶ。彼らの家族は刑務所に私服を差し入れようとする。しかし刑務所では私服の受け取りを拒否する。そして、看守から刑務所支給の(もちろん全員が同じ)服を手渡された囚人たちは怒りに震え、裸の上半身に再び毛布をまきつける。画面切り替わって、英国の役人が「私服とは言っていない、平服と言ったんだ、嘘はついていない」と得意げに語る。

ボビー・サンズ没後25年の日のBBC記事、What happened in the hunger strike?には、英国政府のこの「嘘(はついていない)」のことは、書かれていない。

「平服の支給」と「二度とハンストをしないこと」をつきつけられたボビー・サンズらは、二度目のハンスト決行を決意、そして1981年3月1日、ボビー・サンズが食事を拒んで、ハンストが開始された。

ちなみに、これらのハンストのとき、刑務所の中(ボビー・サンズ)と外(IRAのアーミー・カウンシル)の調整役だったのが、現在のシン・フェイン党首、ジェリー・アダムズである。ハンストからいろいろと学んだアダムズの方針(ballot box and armalite:武装闘争だけではなく票の力も)は南(アイルランド共和国)のシン・フェイン指導部と徐々に離れるようになり、1980年代半ばにアダムズが党首となると同党の指導部は北アイルランドに移る。シン・フェイン/IRAの中でも武装闘争絶対主義みたいな人々は「共和主義シンフェイン党」に分派してゆく。そして1998年のGFAに至る「和平への道」が、徐々に開け始める。(って、これどう書いてもスタンスが偏るなあ……。)

また、ボビー・サンズがハンストをする前に獄中で肩を組んで笑顔で写真におさまっていた小柄な男が、先日射殺体で発見された、デニス・ドナルドソンである。(記事1記事2|記事3は書きかけのまま。)

ベルファストでのボビー・サンズの葬儀にはおよそ10万人が参列した(BBCはこの人数を「7万人」と書いているが、クイーンズ大学が「10万人」と書いているので「10万人」としておく)。

その後、10月3日にハンストの中止が宣言されるまでに、さらに9人が死んでいった。死者の名前と所属 (INLAはIrish National Liberation Army)、命日と断食の期間のリストを、資料サイトから引用する。各人の年齢は23〜30歳である。
* Bobby Sands, IRA, 5 May, 66 days
* Francis Hughes, IRA, 12 May, 59 days
* Patsy O'Hara, INLA, 21 May, 61 days
* Raymond McCreesh, IRA, 21 May, 61 days
* Joe McDonnell, IRA, 8 July, 61 days
* Martin Hurson, IRA, 13 July, 46 days
* Kevin Lynch, INLA, 1 Aug, 71 days
* Kieran Doherty, IRA, 2 Aug, 73 days
* Thomas McElwee, IRA, 8 Aug, 62 days
* Michael Devine, INLA, 20 Aug, 60 days


このハンストが終わったとき、囚人たちの要求は一部受け入れられた。最もシンボリックだった「私服の着用」は、その後認められるようになった。

The end of the hunger strike saw both sides claiming victory.

A few days later, Northern Ireland Secretary James Prior announced a number of jail policy changes which met some of the prisoners' demands - the right to wear their own clothes and the restoration of 50% of lost remission for those who obeyed prison rules for three months.

The general feeling among the republican community was that the hunger strikers had achieved what they set out to do, while the British government insisted they had not given in to republican demands.

http://news.bbc.co.uk/1/hi/northern_ireland/4941866.stm


これらは歴史の教科書に出てくる話ではない。1981年といえばSex Pistolsで英国でのパンク・ムーヴメントに火がついて数年後、ベルファスト出身のStiff Little Fingersが解散する前年、「最近やけにポップになった」とか言われてたような時期である。


※この記事は

2006年05月05日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 19:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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