「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2006年05月05日

Bobby Sands

ボビー・サンズ。1954年3月9日、北アイルランド東部Newtownabbeyにて生まれる。1981年5月5日、2ヶ月あまりのハンストの末、メイズ(ロング・ケッシュ)刑務所で餓死。享年27。
http://en.wikipedia.org/wiki/Bobby_Sands

25年目の命日にWikipediaを見たら、vandalismが発生していた。

bs-wiki.png5日になってから、無登録の誰かが無茶苦茶に書き換えていた痕跡が、履歴のページに残っている。しかもこの書き換えが、途方もなくくだらない。vadalismだしこんなもんだよねとは思うが、あまりにもくだらない。25年前に死んだ男の百科事典の記述にくだらない荒らし行為をしたくなるってのは一体何だ。歴史の連続性ってことか?(違)

ともあれ、「彼のcause」の理解のために、ハンストを始めた日の、ボビー・サンズの日記より、抜粋:
I am a political prisoner. I am a political prisoner because I am a casualty of a perennial war that is being fought between the oppressed Irish people and an alien, oppressive, unwanted regime that refuses to withdraw from our land.
_
I believe and stand by the God-given right of the Irish nation to sovereign independence, and the right of any Irishman or woman to assert this right in armed revolution. That is why I am incarcerated, naked and tortured.
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Foremost in my tortured mind is the thought that there can never be peace in Ireland until the foreign, oppressive British presence is removed, leaving all the Irish people as a unit to control their own affairs and determine their own destinies as a sovereign people, free in mind and body, separate and distinct physically, culturally and economically.
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I believe I am but another of those wretched Irishmen born of a risen generation with a deeply rooted and unquenchable desire for freedom. I am dying not just to attempt to end the barbarity of H-Block, or to gain the rightful recognition of a political prisoner, but primarily because what is lost in here is lost for the Republic and those wretched oppressed whom I am deeply proud to know as the 'risen people'.


この日記について解説することは、非常に難しい。よって何もせず、一部を抜粋するだけにしておく。ただ単に、ボビー・サンズというひとりの人間が何をどう考えていたのか、ということだけ。

I am dyingの3語から、初日に既に死ぬことを覚悟していたということがはっきりうかがえる(それもあって、彼は「キリスト」めいた扱いをされてゆく)。

実際、ハンスト実行の決意を伝えられたジェリー・アダムズは強く反対したという。

In October 1980, the prisoners in the H-Blocks decided that their only hope of pressing home the issue of prison status was to go on hunger strike. In a communication sent in to Bobby Sands, Gerry Adams stated that the leadership of the republican movement was...tactically, strategically, physically and morally opposed to a hunger strike. [source]


アダムズは活動家というより戦略家だなあと思うのは、ここまで強く反対した根っこにあったのは、「ハンストという極端な行動では、主張の焦点がぼやけてしまう」という考えだったという点だ。

しかし実際には、いくら大義があろうと「武装闘争」には関わりたくないという人たちも、ハンストの支持運動(ビラまきなど)には関わった。これが80年代のシン・フェインの方向(ballot box and armalite)を決定付けた。

ならば適当なところでハンストをやめさせることはできなかったのか(何も10人死ぬまでやらせておかなくても)、という批判は当然、シン・フェインに対して、ある。っつか私もそう思う。

そのあたりのことを考えるには、今年3月にガーディアンに出た次の記事を読むといいのかもしれない。

The legacy of the hunger strikes
Saturday March 4, 2006
http://www.guardian.co.uk/Northern_Ireland/Story/0,,1721871,00.html

ハンストに参加し、命を落とさなかった人たちへのインタビュー。非常に長いがいい記事だ。私はすでに読んでいるが(そして、やっぱり「男たちのIRA」だったんだと思っているが)、もう一度、読み返してみようと思う。


※この記事は

2006年05月05日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 20:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | northern ireland/people | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼