kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2006年05月13日

the IndependentとBono@5月16日

And it's true we are immune
When fact is fiction and TV reality
And today the millions cry
We eat and drink while tomorrow they die

-- U2, Sunday Bloody Sunday


そう、私たちは慣れっこになってしまって、事実はフィクションに、テレビが現実になる。今日、何百万という人たちが泣いている。私たちは楽しくメシを食う。明日、彼らは死ぬ。

1983年にリリースされたアルバムで、U2のBonoがそう歌っていたのは、北アイルランド紛争について――もっと大きくは、アイルランドについてだった。(Sunday Bloody Sundayのテーマというかモチーフは、1972年1月30日のBloody Sunday事件。)

少なくとも1983年の時点でそう言うことができていたBonoが、「記事に登場する人」としてではなく、「記事を編成する人」の立場で、英国の新聞と関わるという話。

U2のボノ、英有力紙の1日編集長に=エイズ禍訴え

【ロンドン13日】人気ロックバンドU2のボーカリスト、ボノが英有力紙インディペンデントの1日編集長を務めることになった。同紙によると、ボノはエイズ対策をはじめとするアフリカの諸問題に焦点を合わせた紙面づくりをするという。
 ボノが米慈善家ボビー・シュライバー氏と推進しているエイズ撲滅に向けた「RED運動」の一環で、ボノは16日に編集長席に座る。……


とりあえず、16日のインディペンデント、ウェブ版でも要チェックということで。(肝心のところはウェブでも最初から有料になると思われ。)

※Bono、およびインディペンデントが好きな方は以下は読まないことをお勧めします。ちなみに私のインディペンデントへの見方は「北アイルランド」と彼らの売りである「独自の論調」のバランス(アンバランス)を第一の基準にしてます。

あざといBono@REDとあざといインディペンデント、すごい組み合わせだ。自己陶酔型偽善者と偽善新聞の組み合わせと言ってもいいかも。

もしインディペンデントがSunday Bloody Sundayの歌詞を掲載したら、心の底からどす黒い笑いが噴き出すので、ぜひそうしていただきたい。

ほんとは書きたいことがあるはずなんだけど、アウトプットができない。



※この記事は

2006年05月13日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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