「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2005年10月26日

訃報:ローザ・パークス

ローザ・パークスが92歳で亡くなった。

US civil rights icon Parks dies
http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/4373794.stm

Obituary: Rosa Parks
http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/4374288.stm

Obituary: Rosa Parks
http://www.guardian.co.uk/usa/story/0,12271,1600274,00.html

私が「ローザ・パークス」という名前を知ったのは,高校のときの英語の教科書かあるいはサイドリーダーか,あるいはどこかの大学の過去の入試問題だったと思う。

それは,マーティン・ルーサー・キング牧師の"I have a dream"の演説を軸とした文章だったが,一方で,マルコムXには何ら言及がなかった。パークスがマルコムXの支持者だったということは,パークスの名前を知ってからかなり後になって知ったことだ。

北アイルランドのニュースブログ,Slugger O'Tooleの記事に,ガーディアン記事から引用されている"It was just a day like any other day."というセンテンスが私が彼女の名前を知った文章の中に書かれていたことは,はっきり覚えている。like any otherという言い方をこれで記憶したからだ。

私の世代にとって,高校での英語の教科書(あるいはサイドリーダーや入試の過去問)は,「英語圏ではどういうことがあるのか,起きてきたのか」が書いてあるものだった。

今はそういう色はかなり薄くなっている。だから,今の高校生とか大学生とか,あるいは社会人になったばかりの世代の人たちが,「ローザ・パークス」という名前を,普通に“勉強”してただけで知ってるかどうかを私は知らない。

ともあれ,私が見たローザ・パークスの訃報を伝える記事(マスメディアおよびウェブログ)の多くに共通するのはmythという語で,それはまた同時に,"icon"とか「シンボル」といったものを考えさせる。

あまりに象徴的なものとなってしまった,「バスの座席を譲らなかった勇気ある女性」は,「ほかの日と何ら変わりのないあの1日」の後,公民権運動の中心的アイコンとなり,そしてアラバマでは仕事を見つけることが難しくなって,1957年に夫婦でデトロイトへ移住。そして1965年から88年まで,民主党のJohn Conyers議員の事務所で働いた。88年に退職する前年,彼女はthe Rosa and Raymond Parks Institute for Self Developmentを立ち上げて,退職後はその活動に専念。1990年代に3冊の著書を出し,96年にthe Presidential Medal of Freedomを授与された。2000年にはアラバマに記念館がオープン。(出来事の記述はガーディアン記事より。)

ローザ・パークスがアラバマ州モントゴメリーでバスの座席を白人に譲ることを拒否した1955年12月1日から,まもなく50年。

10月25日付,Truthout.orgの画面キャプチャ。(クリックで原寸大。)
truthout_25oct05.png

左上の笑顔の写真,真ん中のバス内の写真をクリックすると,NYTの記事につながるようになっています。

※この記事は

2005年10月26日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 21:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑多に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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