「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2005年12月24日

ルワンダのジェノサイドの証人、ベルギーで死す。

映画『ホテル・ルワンダ』(公式サイト:日本語)が1月から順次全国でロードショーが決定したとのことですが(おめでとうございます)、さっきガーディアンを見てみたらルワンダについてちょっと気になるニュースが。

Body of genocide witness found in river
http://www.guardian.co.uk/rwanda/story/0,14451,1673715,00.html

1994年のルワンダのあまりにひどい流血については、「ルワンダ国際特別法廷」(The International Criminal Tribunal for Rwanda)で「ジェノサイド罪」「人道に対する罪」「ジュネーヴ条約違反」で当時の権力者らが法の裁きを受けているところですが、検察側の証人として重要な人物である、当時のルワンダ政府の閣僚(minister for parks)、Juvenal Uwilingiyimanaが、ブリュッセルの運河で遺体となって発見された、というニュースです。

記事から事実関係をまとめると、Juvenal Uwilingiyimanaは1998年にベルギーに亡命し、アサイラムのステータスを得て以降ベルギーに暮らしていた。6月にジェノサイドで起訴され、8月に国際手配となり、その後ICTRに協力することに同意。11月21日から行方がわからなくなり、運河で見つかった遺体は既に腐乱しており、手がなくなっていた(殺害されたときに切られたのか、運河を航行する船のために切れてしまったのかは不明)。身元確認はDNA鑑定で行なった。死因ははっきりしないが、殺害されたとの断定はされておらず(記事の下の方に、ICTRの"If the cause of death is determined to be homicide, ..."というコメントがあります)、検視ではviolent deathの兆候は見られないという。

Uwilingiyimanaの弁護士の話と、行方がわからなくなって7日後の28日にネットに掲載された、Uwilingiyimanaが書いたとされるレターによると、特別法廷に協力して証言をするか、自身も被告となるかの選択を迫られて証言する道を選んだが、当時のルワンダ政府の高官を特定することを求められ、ベルギーの亡命者コミュニティによって家族が危険にさらされるのではないかと考え、ICTRへの協力をしないと決意し、11月18日に行なわれたinterviewを最後に、法廷と接触しなくなっていた。行方不明になった21日には、ICTRでのinterviewが予定されていたが、姿を現さなかった。

いずれにせよ、運河で遺体となって発見されたこの人が、余人が知らないことを知っていたことは確かで、これによってその分だけ「真相究明」が難しくなったこともまた確かだろうと思います。

続報があればコメント欄に追記します。

※この記事は

2005年12月24日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 14:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑多に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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