「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2006年02月01日

訃報: Coretta Scott King (widow of Martin Luther King Jr)

マーティン・ルーサー・キング牧師の夫人で、キング牧師の暗殺後、彼の運動を引き継ぐ形で行動をしてきたコレッタ・スコット・キングさんが、30日夜、亡くなった。享年78。

Widow of Martin Luther King dies
http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/4665820.stm

Obituary: Coretta Scott King
http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/4666222.stm

コレッタ・スコットは1927年生まれで、アラバマ州マリオンの農場で育った。オハイオの大学で音楽と教育を学んで卒業したあと、歌の勉強のためにボストンに移り、マーティン・ルーサー・キングJrと出会い、1953年に結婚。

3年後にアラバマ州モントゴメリーに転居し、公民権運動に関わるようになる。1955年のバス・ボイコットの数日前に長子が誕生。

キング牧師の活動が大きくなるとコレッタは補佐役に回ったが、キング牧師の代わりに演壇に立つこともあった。

コレッタの活動が本格化したのは、1968年にキング牧師が暗殺された後のことだった。

自叙伝 My Life with Martin Luther King Jr で、コレッタは、夫のやり遂げられなかった公民権運動を引き継いで完成させなければならないと感じた、と語っている。

キング牧師の暗殺の1年後、コレッタはアトランタにMartin Luther King Jr Center for Nonviolent Social Changeを設立。また、1月第三月曜日を「キング牧師の日」として米国の休日にするための運動もおこなった。(1986年から実現。)

アパルトヘイト反対といった外国の問題でも活動し、1985年にワシントンの南ア大使館前で抗議行動を行なったときには、3人の子供とともに、逮捕された。

最近は健康状態がすぐれなかったが、今年1月14日の「キング牧師の日」のパブリック・・ディナーには出席した。

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昨年、ローザ・パークス(モントゴメリーのバス・ボイコットで知られる公民権活動家)も亡くなった。

※この記事は

2006年02月01日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 10:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑多に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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