科学的精神は尤も日本的現実を、いきなり日本文化や日本人精神として掴みはしない。日本の現実は根本的にはそういうもので動いているのではないからだ。日本的現実は正に、日本の社会機構・生産機構を通して政治的に動いているのだ。分析をここから始めない限り、日本的現実の把握は歴史的でもなく又技術的でもない、つまり科学的でないのだ、ということを銘記すべきである。というのは、そうしないと、一切の日本論議が、恰も今日見るように、論理的にもならぬし、実践的にもならぬ、というのであり、筋も通らなければ物の役にも立たぬ、というのだ。
さて之が科学的精神の要求する処である。之によって日本的現実のもつ日本固有の独特な特色も初めて正確に検出出来る。
――戸坂潤,『科学的精神とは何か――日本文化論に及ぶ――』
いつ書かれたものなのかなあ。戸坂潤という人は1945年に没しているのでそれ以前であることだけは間違いない。
戸坂潤という人を知ったのは今年のこと。著作権の切れた文章をピックアップする作業をしていて,図書館で「日本の名著」みたいなのを端から順番に見ていたのだが,「どーせ思想関連はみんな『古く』なっちゃってるし」と先入観を抱いていたのが覆されてしまった。内容の話ではなく,言葉づかいが。
言葉づかいというものは,書き言葉においては,思考の枠組みに規定されるものなのだけど。
何か不思議。
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※この記事は
2003年11月20日
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1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。