kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2006年06月18日

アイルランド、1904年/1920年代/1940年代――「暴力」は連鎖した

6月16日はBloomsdayである。ジョイスの『ユリシーズ』の日。私は自分がこの作品を読めるほどの頭と忍耐力を持っているとは思わなかったので、あらすじ(知らない人は2ちゃんのBloomsdayスレの投稿番号63参照、ミもフタもないけど)しか知らない。(もちろん『フィネガンズ・ウェイク』など恐ろしくてとても手出しできない。)

まずスラオさん記事:
From Ulysses: Fatal Flower Garden
http://www.sluggerotoole.com/index.php/weblog/comments/from_ulysses_fatal_flower_garden/

YouTubeの映像がエンベッドされている。記事を書いたミックによると「このビデオクリップはアイルランド(共和国)国営放送で放映されたもので、Gavin Friday(というシンガー)が、『ユリシーズ』からの曲を歌っている」。(左に翻訳引用した部分のあとのミックの記述、およびコメント欄は、アイルランドなるものに興味のある人や、反ユダヤ主義なるものを知りたい人にはご一読いただきたい。ちなみにコメント欄はまるで「南京大虐殺」をめぐる論争のような状態、読むのにかなり体力を使うかもしれないが、方向としては建設的、さすがスラオさんコメ欄である。私はPosted by Benn on Jun 16, 2006 @ 03:12 PMに部分的に共感する。)

YouTubeの映像は、100年前の「反ユダヤ主義」を今のソーシャル・コンテクストで読み替えている。言葉はわからなくても(聞き取れなくても)、元ネタがanti-semitismであることを頭に置いてその映像に映っている人間を見れば、メッセージは明確である。

Wikipediaによると、『ユリシーズ』は、1882年生まれのジェイムズ・ジョイスによって、1914年から1921年にかけて執筆され、1918年から1920年にかけてアメリカのメディアで連載され、単行本としては1922年にパリで出版された。物語の舞台はダブリン。1904年6月16日という1日を、ものすごい量の文字で綴っている。冴えない中年のサラリーマン(広告代理店の営業職)であるレオポルド・ブルームは「妻が浮気をしているのではないか」と思い悩んでいる。ほんとは小説家になりたいスティーヴン・ディーダラスは学校教師として生計を立てている。ブルームはユダヤ系、ディーダラスはカトリック。ナショナリズムについての議論でうはーとなるディーダラスは、ジョイス自身と言われる。ブルームとディーダラスはそれぞればらばらに過ごし、あるときにおいて接点を持つ。ちなみにベースはホメロスの『オデュッセイア』である。

ジョイスが生まれた19世紀末と、『ユリシーズ』に描かれた1904年と、『ユリシーズ』が執筆された1920年前後とはすなわち、「アイルランド自治」法案の時代と、ユダヤ人排斥の象徴的出来事のあった年と、アイルランド独立戦争(アイルランド内戦)の時代である。

19世紀末、「グレートブリテンおよびアイルランド連合王国」すなわち「英国」の政治の中枢であるウエストミンスターは、Home Rule(アイルランドの自治)法案で騒がしく、それはもちろんアイルランドでナショナリズムが勢いを得ていたからでもあり、ジョイスは生まれは「アイルランドのカトリック」だったけれども、ガチのナショナリズム(ゲール語主義など)についていけない何かを感じ、教会にf-word的な感情(<たぶん)を抱いて、1904年にアイルランドを離れて大陸に渡り、それからはトリエステ、チューリヒ、パリを拠点とした。用事があればアイルランドを訪れはしたが、結局そのままアイルランドで生活することなく、ジョイスは大陸で病没した。現在私たちが記号として受け取る「アイルランドなるもの」からジョイスは逃走した。

というわけで、1904年のある日を描いた『ユリシーズ』は、大陸に移り住んだあとに書かれたものである。

レオポルド・ブルームがいつものようにダブリンうろうろを決行していた1904年、アイルランドでは、ユダヤ人に対する迫害事件が起きていた。「リムリック・ポグロム」と呼ばれるそれは、カトリックの聖職者がアジったことをきっかけとする「そのコミュニティの多数派」の行動であった。(以下、ウィキペディアを参照してまとめた。なお、私は「誰が」それを「ポグロム」と呼び始めたのかを知らない。確実なのは、主義主張ではなく事実として、この「ポグロム」をはるかに凌ぐ、というか比べ物にならない規模の「弾圧と抑圧と虐殺」がアイルランド人に対してはずっと起きていたということだ。規模の大小が暴力の質の上で絶対的な意味を持つとはあまり思わないが、名づけ方によって意味が違ってくるというのもどうかという気は、私はしている。)

アイルランド南西の内陸の都市リムリック(このへんは、今も壁に"Up the IRA"系の落書きがあったりする)には、1870年代、リトアニアから迫害を逃れてきたユダヤ人商人が暮らすようになった。1880年代にはシナゴーグ(ユダヤ教寺院)と墓地が作られた。が、ここでもまた、ユダヤ人たちは差別と憎悪に直面する。1884年のイースター・サンデイには襲撃や抗議行動が発生し、女性がひとり負傷。1892年には2家族が殴打された。そして1904年、年若いカトリックの司祭が「キリストを拒絶し、暴利をむさぼるユダヤ人に懲罰を」などと教会で説教した。「カトリックたる者、ユダヤ人と関わってはならない。」

こうして「ユダヤ人の店では買わない」という不買運動が始まった。(別の説明では、「Buy Irishのキャンペーンだった」とも。)この不買運動は2年間続いた。リムリックのプロテスタントたちはユダヤ人をサポートしたが、結局、リムリックのユダヤ人たちは街にいられなくなった。

激しくアジった「過激な宗教指導者」は、教会によって配属替え(島流し)となった。ユダヤ人たちが脱出した先の港町コーク(アメリカへの船が出る)では、人々は彼らを避難民として受け入れた。しかしリムリックのユダヤ人コミュニティが、「憎悪」によって破壊され取り除かれたことに変わりはない。(「誰によって」は、「憎悪によって」ほど本質的なことではないし、ここで「誰によって」を問うことは、またもやエスニック・グループ単位で考えるというトラップにはまることになりかねないので深く追求せずにスルー。ナショナリズムに反対する立場からはここはつつきやすいところで、実際につつかれてるのは、ネットで検索すればわかる。私はそれに思考を規定されたくない。)

迫害される側のアイルランドのカトリックが、ユダヤ人を迫害した。その「迫害」の規模がどうであれ、これは「アイリッシュ・ナショナリズム」を美化するときには「例外」としたい歴史上の事実だろう。しかしこの「ポグロム」の後も、アイルランドの(カトリックによる)「ユダヤ人迫害」は終わらない。黒シャツならぬ青シャツ隊は、同じカトリックであるフランコ独裁政権(スペイン)を強く支持し、「ユダヤ人排斥」を唱えた。(Wikipedia、アイルランドにおけるユダヤ人の歴史も参照。)

第二次大戦(アイルランドでは「非常事態 The Emergency」と呼ぶ)中は、アイルランド共和国は中立の立場であった(=連合国側でも枢軸国側でもなかった)が、IRAはナチス・ドイツとつながっていた。(ただしアイリッシュ・ナショナリストのドイツとのつながりは、第一次大戦、というかイースター蜂起の前からあった<確認したい人はRoger Casementで検索を。)第二次大戦当時のIRAのリーダーは銅像になっている(2005年1月にその銅像は「反ファシズム」の人物に損壊された)。

ただしこの人物およびIRAおよびシン・フェインが何をどこまで認識していたのかは、情報がかなりバラバラで、私にはよくわからない。というか、今はこのトピックに関してはIRA/シン・フェインを罵る文章が量的にあまりに多すぎて、それらの文章のバイアスを取り除いて「事実」を抽出しようという気になれない。

ちなみに、「情報」について非常に突き詰めて考えている人が運営しているthe Blanketに寄せられた記事は下記。文中に細かくリンクもはってある。
Sean Russell and the Nazis, Mick Hall, 31 January 2005
http://www.phoblacht.net/mh0902053g.html

アイルランドの人々は数世紀単位に及ぶ英国の植民地支配によって虐げられ迫害され、居場所から追われてきた。それは事実である。同時に、その迫害されてきた人々が、今からおよそ100年前に、別のところで迫害されて逃れてきた人々を迫害したことも事実である。そして、アイルランドで(も)迫害された人々はものすごい規模の、もはや「迫害」とは呼べぬ暴力の標的となり、その後に、もはや単に「暴力」としか呼べぬものの行為主体となっている。「(かつて)虐げられていた」という体験を現在の正当化のために利用することは、案外とあちこちで見られるものかもしれないが。

アイルランド独立戦争が最も激しかった時期、つまりケン・ローチのThe Wind That Shakes Barleyに描かれている時期、英国による暴力も、アイリッシュによる暴力も極めて激しかった時期に、アイルランドを離れたところで「都市ダブリン」を描いた『ユリシーズ』を書いていたジョイス。

実際どうなのよ、と考え始める前に、作品を読まなきゃしょうがないじゃん、と。うーむ。あれを読むのか。うーむ。完全に没入できる時間というぜいたく品と、精神の余裕が得られない限りは、私には無理と思うのだが。片手間で読めるもんじゃない(読み出したら片手間にならなくなる)はず。(それに「意識の流れ」って苦手なのよね。。。)

※本記事コメント欄での「ユダヤ差別」に関する論争はお断りします。←一応書いておく。

※この記事は

2006年06月18日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 10:36 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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