「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2003年09月13日

「萩の花の落ちこぼれた水の瀝りは、静かな夕暮の中に、幾度か愛子の小さい咽喉を潤おした」

ただ、じっとして寝ていた。しかしその寝方にどことなく余裕(ゆとり)がない。伸んびり楽々と身を横に、日光を領しているのと違って、動くべきせきがないために――これでは、まだ形容し足りない。懶さの度をある所まで通り越して、動かなければ淋しいが、動くとなお淋しいので、我慢して、じっと辛抱しているように見えた。

「自分は、どうしたんだ、夜中に小供の頭でも噛られちゃ大変だと云った。まさかと妻はまた襦袢の袖を縫い出した。猫は折々唸っていた。

萩の花の落ちこぼれた水の瀝りは、静かな夕暮の中に、幾度か愛子の小さい咽喉を潤おした。

――夏目漱石,『永日小品』より「猫の墓」

ひとつのいのちの終わりと,そのいのちの終わりの周辺を観察する夏目漱石の目と,それを言語化する夏目漱石の脳髄。

「猫の墓」に描かれた「猫」は,小説『吾輩は猫である』の「吾輩」として後世に伝えられているあの猫。明治41年9月13日に死んだという。

『永日小品』は翌明治42年の1〜3月に新聞に連載された。

とすると,「猫の墓」の結びの

 猫の命日には、妻がきっと一切れの鮭と、鰹節をかけた一杯の飯を墓の前に供える。今でも忘れた事がない。ただこの頃では、庭まで持って出ずに、たいていは茶の間の箪笥の上へ載せておくようである。

は,「ペットロス」が話題となる今の感覚からするとたいそう短期間だったことがわかる。

同じく夏目漱石の『硝子戸の中』(大正4年1〜2月)に,漱石自身が幼少のころにいた犬,ヘクトーが出てくる(三〜五)。

『硝子戸の中』は高校生の時に読んだ。当時うちにも犬がいた。だから

 日ならずして、彼は二三の友達を拵えた。その中で最も親しかったのはすぐ前の医者の宅にいる彼と同年輩ぐらいの悪戯者であった。これは基督教徒に相応しいジョンという名前を持っていたが、その性質は異端者のヘクトーよりも遥に劣っていたようである。むやみに人に噛みつくが癖あるので、しまいにはとうとう打ち殺されてしまった。

という「四」の書き出しはたいへんにショッキングだった。犬を打ち殺すということが,ごくごく当たり前のことのように書かれているからだ。それが当たり前だった時代があると,うちの犬には言えなかった。

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『永日小品』は時に身辺雑記,時に回想,時に夢想あるいは創作。文章は冴え冴えとし,大病を経て死の前年に書かれた『硝子戸の中』に比べると軽快で飄々としている。

「元日」は,カギカッコ(「」)をひとつも使っていないのにその場の会話が活き活きと想像される。

「下宿」「過去の匂い」「霧」「クレイグ先生」ではロンドンとそこの人間が描かれる。「昔」はスコットランドが舞台。

『永日小品』
『硝子戸の中』
夏目漱石 年譜

※この記事は

2003年09月13日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 07:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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