「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2012年01月08日

TG4でドキュメンタリー「IRAの女性たち」、初回は「IRAの闘士となったイングランドのお嬢様」

ローズ・ダグデイル (Rose Dugdale) という人がいる。1941年、ロンドンに生まれた女性。父親がロイズのアンダーライターという家で、つまり大富豪、であるばかりか、10代(1959年)で正式に社交界デビューもしている。要するに、イングランドの本物のお嬢様だ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Rose_Dugdale

いきなり彼女の名前を見ても、私はピンと来ることはなかっただろう。しかし私がまず見たのは、「IRAの爆撃犯となった英国のお嬢様」という文字列だった。

(というようなことを、下記記事をはてブするときにTwitterにフィードしたら「デビュタント、すてき〜」みたいな反応をいただいて、心底コケた。マジで、こっちが書いてることの何を読んでるの? ボットじゃあるまいし、単語単位で反応されても困る。)

I've no regrets: British heiress who became an IRA bomber
By Mark Hilliard
Friday, 6 January 2012
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/republic-of-ireland/ive-no-regrets-british-heiress-who-became-an-ira-bomber-16099952.html

「私に後悔はない」。これでも聞きながら。
http://www.youtube.com/watch?v=kFRuLFR91e4
エディット・ピアフの"Non, Je Ne Regrette Rien"(後悔など何もない)はアルジェリア戦争中、1960年に吹き込まれた。ピアフはこの録音を外人部隊に捧げ、彼らは61年のアルジェでの反乱(反ドゴール)でこの曲を歌った。
http://twitter.com/nofrills/status/19816483276


フィニッシング・スクールにやられてデビュタント・ボールを開催したお嬢様のローズ・ダグデイルは、また、オクスフォード大学で哲学・政治学・経済学を修めている。年齢的に考えて1950年代の後半のことだが(比較対照として、例の「鉄の人」は1943年に入学している)、当時はまだ、この名門大学で「女性」のいる場所は、十分に確保はされていなかった。オックスフォード大学生ユニオンは女性の入会を認めず、ローズは友人と一緒に男装して直談判に訪れたようだ。

このころすでに「左傾化」(メディアの表現)しつつあった彼女は、大学卒業後渡米して修士号を取得し(論文のテーマはウィトゲンシュタイン!)、ロンドン大学で経済学の博士号を取得。その後は経済学者として政府の仕事に就いたようだが、1968年の学生運動と、キューバ訪問を経て政治的に急進的な立場となり、1972年には仕事もやめ、ロンドンの高級エリアの家も売り払って恋人とともにトッテナムのフラットに引っ越して、完全に救貧活動に専念するようになっていた。家に由来する財産はロンドン北部の貧困層に分配した。また、公民権運動にも主体的に関わり、そこから北アイルランドとのつながりができたという(北アイルランドは、そもそも1960年代後半に大きなうねりとなったのは公民権運動だったが、いろいろあって、事態の主導権を握ったのは、当時はまだごく小規模な武装組織だったIRAであった)。

ローズは頻繁に北アイルランドに行き、デモに参加するようになった。このころのことは、公民権運動の年表なども参照してより細かく見ていく必要があるかもしれないが、少しはしょる。結論だけいうと、1968年以降、主にデリーとベルファストで盛り上がった公民権運動は、やがて分裂してしまう。非暴力主義は主にSDLPへ集約され(北アイルランド和平の立役者としてノーベル平和賞をうけたジョン・ヒュームはデリーの公民権運動からSDLPへといった活動家のひとりだ)、SDLPよりもラディカルな立場の人たちは独自の団体を作った。暴力も辞さない「過激派」は、より急進的な「極左」の団体を作るなどもあったが(規模は小さかったし続かなかった)、「問題は、依然としてアイルランドを占領し続けている英国の帝国主義である」という観点から、昔ながらの(というかジェイムズ・コノリーらに由来する)アイリッシュ・ナショナリズム、すなわち(当時の)シン・フェインとIRAに合流する人たちもいた。ローズ・ダグデイルはそういう人のひとりだ。

1973年6月、ローズとその恋人は、ダグデイル家の邸宅から絵画や銀器を盗んだとして逮捕される。これらを売りさばいた金はIRAに流れたとされている。エクセター(イングランド)でおこなわれた裁判の結果、ローズは恋人ともども有罪判決を受けた。このとき彼女は判事に「私を有罪としたことによって、あなたは私を知性ゆえの反抗者から、自由のための戦士に変貌させました」と語っている。恋人のほうは懲役6年だったが、法廷で証人として出廷した父親に「あなたのことは大好きですが、あなたが体現するすべてのものを私は憎みます」と語ったローズについては、判事はこれ以上犯罪行為に関わることはまずないだろうと判断し、執行猶予で懲役2年を言い渡した。

その後、ローズはアイルランド(共和国の方)に渡り、北とのボーダーのエリアで活動するIRAのアクティヴ・サービス・ユニット(ASU)に加わった。1974年1月、彼女らのユニットがドニゴール州(アイルランド共和国)でヘリコプターを乗っ取り、ボーダーのすぐ向こうにあるストラバンのRUC(当時の北アイルランド警察)の施設に対し、ミルクの樽に爆薬などを詰めた爆弾を投下した(これが彼女が「爆撃犯」と言われるゆえんである)。これらは爆発はしなかったが、ローズはアイルランド島とブリテン島の全域に指名手配された。

同年4月、彼女と3人のIRAメンバーはアイルランド共和国のウィックロウ州にある名士の邸宅に押し入り、名士夫妻を縛り上げて、絵画などを盗んだ。このとき盗まれた19点の作品の中にはルーべンス、ゴヤ、ゲインズバラといった巨匠の作品のほか、フェルメールの「手紙を書く女と召使い」という作品もある(今、日本に来てる)。盗難にあった絵画は8日後にコーク州で無事に発見された。なお、フェルメールのこの作品はこの事件のあと1980年代にもまた盗まれ、個人蔵だったこの作品は結局ダブリンの国立の施設に寄付された。

フェルメールやゴヤを盗んだIRAは、ロンドンのオールド・ベイリー爆弾事件で有罪となり、ロンドンのブリクストン刑務所で獄中ハンストをおこなっていたプライス姉妹の釈放と50万アイリッシュ・ポンドを要求した。(このプライス姉妹の姉のドロースのインタビューのテープが、例のボストン大 (BC) のあのテープである。)盗難作品が取り戻され、ローズ・ダグデイルは「国家に対する犯罪法の第30条」、つまりアイルランド共和国における「テロ法」で逮捕され、翌日、ヘリコプターでの攻撃と絵画窃盗で起訴された。

その裁判でまたローズは演説をぶちかまし、自身の政治的主張を披露した。ウィキペディアに記載されているその言葉は、「お嬢様」とかそういうの関係なく、「イングランド人」の口から出たものとは信じられないようなものかもしれない。パトリシア・ハーストの例から、ローズについても「ストックホルム症候群」ではないかと思う人もいるかもしれないがそうではない。ローズはIRAに支配されていたわけではなく、自分の考えと信念で、IRAの武装闘争に参加した。

帝国主義についてものすごく批判的で憎悪とすら呼べる感情を抱いているイングランド人が、IRAの最も苛烈な「闘争」の担い手となるということは、それ自体は特に不思議ではない。IRAの武装闘争主義を決定付けたSean MacStiofainも、血筋はアイリッシュだったが、出自はイングランド人だ(Englishという帰属意識はなかったかもしれないが)。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/1338365.stm

ともあれ、1974年6月25日にローズは「堂々と、何ら恥じるところなく」自分は有罪であると述べ、懲役9年を宣告された。退廷時、彼女は傍聴席の支援者に向かって拳を掲げたという。このとき彼女は、同じASUのメンバーの子供を身ごもっており、同年12月にリメリックの獄中で出産した。生まれた子はローリー (Ruairi) と名づけられた。

翌1975年10月、ローリーの父親であるIRAメンバーら2名が、リメリックでTiede Herremaというオランダ人実業家を誘拐し、ローズ・ダグデイルの釈放を要求した。2週間後、人質に取られていた実業家は解放され、IRAメンバー2名は逮捕された。それぞれ懲役20年、15年を宣告されたが、1978年にローリーの父親とローズに対する結婚の許可が出て、二人は獄中結婚した(アイルランド共和国で初の獄中結婚だったそうだ)。そして1980年10月、ローズ・ダグデイルは仮釈放された。

1980年10月といえば、メイズ刑務所での第一次ハンストのころだ。フィジカル・フォースによる闘争もだが、弁論と弁舌と、キャッチフレーズによる闘争が重視された局面だ。ローズのような超インテリの出番はきっとたくさんあっただろう。翌1981年の第二次ハンスト(ボビー・サンズのハンスト)の際は、政治犯・戦争捕虜の待遇を要求する獄中のリパブリカンの囚人を支援する活動をおこなった。現在はシン・フェインの活動(つまり、1998年ベルファスト合意から2006年セント・アンドルーズ合意を経て、DUPと共同で政権を担当しているシン・フェインの活動、要するに「武装闘争を捨てたリパブリカン」の活動)をおこなっているそうだ。ほか、IRAとは直接の関係のない環境運動での活動もおこなっているという。

以上、ウィキペディア読んだだけでオナカイッパイ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Rose_Dugdale

で、6日のベルテレの記事いわく、そのローズ・ダグデイルが5日、RTE(アイルランド共和国国営)のラジオのインタビューにこたえている、という。

その中でローズは、インタビュアーによる「IRAの蛮行 atrocities」という表現に異議を申し立てている。
"I wouldn't accept that the IRA has carried out atrocities; I think that is your language, it is certainly not mine," she said.

"I think that is a fairly ridiculous statement because I think you have to judge everything in the context of the imperial army that was occupying our country."
「IRAが蛮行をはたらいたとの言説は、私は拒絶します。それはあなたが語る言葉ではあるのでしょうが、私の言葉では、断じてありません。全てを私たちの国を占領している帝国主義の軍隊という文脈で判断せねばならないのですから、(蛮行という)そのような言説は非常に馬鹿げたものであると私は考えます。」

すげぇ。ぶれがない。

……というローズ・ダグデイルのインタビューは、RTEのサイトで聞ける。下記のclick hereのリンクでmp3が公開されている。8MBもないのですぐにDLできると思う。長さは17分(でも話の途中で唐突に終わってる)。


最初に番組キャスターの前置きがあり(あまりに波乱万丈すぎるので、何も知らずにこれ聞いていたら、まさに「耳を疑う」レベルだと思う)、そのあとはローズについてのニュースのアーカイヴ音声のコラージュ(この中でローズは「ドクター」で呼ばれている。正真正銘、経済学博士だったということをここで改めて思い出させられる)。インタビューは1:27から始まる。この70歳の女性は低い声で、かなりの早口で語る。

インタビューがなぜ今おこなわれているのかなど、背景はThe Journalにまとまっている。(RTEラジオの放送がある前日の記事。)

English heiress turned IRA bomber Rose Dugdale gives rare interview
http://www.thejournal.ie/rose-dugdale-english-heiress-turned-ira-bomber-gives-rare-interview-320007-Jan2012/

いわく、TG4(アイルランド国営のアイルランド語放送局)で今週から、「IRAの女性たち」という6回シリーズのドキュメンタリーが始まる。番組は、女性たちの個人としての体験談と、何が原因で「直接的で暴力的な行動 direct and violent action」を選んだのかという点を重点的に扱い、また女性たちの行動が北アイルランド紛争とアイルランド共和国の政治に与えた影響について考察する。

1回目がローズ・ダグデイルで、続いて次の人々が特集される。

- Josephine Hayden
シン・フェインの分派、リパブリカン・シン・フェイン(RSF)の事務総長。つまり1998年の和平合意に反対。2000年のガーディアン、ヘンリー・マクドナルドのインタビューがある。
http://www.guardian.co.uk/uk/2000/aug/13/northernireland.henrymcdonald

- Pamela Kane
アイルランド共和国で唯一の女性のIRA受刑者。今は、シン・フェインの機関紙に記事があるので、「和平」路線に賛成の人だろう。
http://aprnonline.com/?p=77800
http://www.flickr.com/photos/tg4/6553308127/in/photostream

- Martina Anderson
NIウォッチャーにはおなじみ。1962年、デリー出身。ブライトン爆弾事件(サッチャー暗殺未遂)の実行犯の逃走に関与。現在はシン・フェインのMLAでNI自治政府のジュニア・ミニスター。元「ビューティー・クイーン(ミスコン優勝者)」で、実際「美人」なのだけど、英メディアはそれを揶揄したりしてた。この人の獄中闘争のすさまじさはちょっと想像を絶する。
http://www.tallgirlshorts.net/marymary/martina.html
http://www.irlnet.com/saoirse/maghmartina.html
http://www.sinnfein.ie/contents/14967
http://www.flickr.com/photos/niexecutive/6168891791/in/photostream/
↑最後のリンクは、アート・プロジェクトで折り鶴を折ってるところ。

- Roseleen Walsh
検索したくらいではほとんど何も分からないが、70年代アーマーの女性刑務所で抵抗していた。現在は文人として活動しているらしい。
http://www.tallgirlshorts.net/marymary/roseleen.html

- Rosie McCorley
1998年和平合意後に釈放されたリパブリカンの囚人として、女性の1人目。
http://www.bbc.co.uk/northernireland/schools/agreement/reconciliation/support/rec1_n061.shtml

The Journalは、TG4のドキュメンタリーのなかのローズの次の言葉を引用している。(ジェリー・アダムズが80年代に似たようなことを述べていたはず。)
There can come a time when you may or may not want to kill people. Essentially it was military action which had a chance to succeed and in my mind there was no doubt about that.


ドキュメンタリーを制作したLoopline FilmのYTアカウントにアップされている冒頭1分20秒ほどのクリップ(この部分は全部英語。ただし画面に表示される文字はアイルランド語)。


自宅(ダブリン)の簡素な一室でローズは「イングランドから来た者は偏見を持たれる」と語っている。しかも彼女のバックグラウンドとなれば「いい家のお嬢さんが、政治にかぶれた」と軽く見られて当然だろう。

だからこそ、本当に「がっちがち」としか言いようのない「思想」と「その思想を語る言葉」で、彼女は武装したのだろう。自分は本気である、と彼らを納得させるために。

もう一度、私が最初に見たベルファスト・テレグラフの記事に戻る。(この記事では彼女にDrのタイトルはつけていない。Ms Dugdaleである。)
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/republic-of-ireland/ive-no-regrets-british-heiress-who-became-an-ira-bomber-16099952.html

ローズ・ダグデイルは「あの時代」を語る。「世界は変化しそうに見えたし、実際に変えられそうだった。どんな人でも、それに参加することができるのだと、そう見えた」。Revolutionariesの時代。「イングランドのお嬢様」は「世界の変革」のための活動家になったのだと。RTEのラジオのインタビューで、ローズは、自身を「兵士」であると位置づけ、自身の育った環境はそのためにプラスに働いたと完全に肯定している。

しかしそれが、「虐げられた人々の解放」、「人としての権利の獲得」のための活動だったはずのそれが、爆弾投下(不発)や他者の財産の強奪という形でおこなわれるとき、彼女の内面にはどんな「変化」があっただろうか。あるいは「変化」は、そもそもあったのだろうか。

そういったことも、語られているのだろうか。

彼女が投獄された後、「仲間」たちが彼女の身柄の解放を要求して誘拐したオランダ人の実業家は、これまで私も何度か名前を目にしているが(「人質に取られる」ということについて、回顧的に語る記事で……イラクでの誘拐事件、特にマーガレット・ハッサンの事件のときに)、このベルテレの記事でも言及されている。

Yesterday, however, one victim famously linked to IRA activity said he understood why he was kidnapped and said he forgave his captors.

……また「赦し」の概念だ。私には難しくて、手に余る概念。
In October 1975 Dutch industrialist Dr Tiede Herrema was kidnapped in Ireland by IRA man Eddie Gallagher.

He demanded the release of Ms Dugdale as part of conditions required to secure his hostage's release.

Tiede Herremaさんは誘拐されてから2週間にわたって、犯人によって人質に取られていた。誘拐事件発生後、獄中にあったローズのもとに看守がやってきて、電話で話をするようにと言った。彼女は人質解放を説得してくれという話だと感づき、協力はしないと応じた。そればかりか、誘拐犯には「よくやった」と……。

誘拐されたヘレマさんは、RTEの(別の番組の)インタビューで、「私を狙ったわけではなく、誰かを狙った事件で、たまたま私が誘拐されたのであり、私に対するものではなかった」と理解を示した(というマスコミ&外務省用語を使いたくなる)。

ヘレマさんのこの態度は、身柄解放直後から一貫している。身柄解放を報じるBBC記事(1975年11月7日):
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/november/7/newsid_2539000/2539461.stm
In spite of fears that Dr Herrema's ordeal would traumatise him, he looked calm and collected at a news conference soon after his release.

He showed reporters a bullet from the gun which had been held to his head - it had been given to him as a souvenir by Eddie Gallagher.

Dr Herrema said there had been a few occasions when he had feared for his life, particularly in the first 48 hours after his abduction.

But he did not hate his captors who were the about the same age as his son, he added

"I see them as children with a lot of problems. If they were my own children I would do my utmost to help them," he said.

ただ、解放直後のこれは「赦し」というよりむしろ、「心理戦」に見える。彼の身柄が解放された時点では、IRAとの紛争はまだ何も終わっていない。頭に銃を突きつけられるという経験をしたにもかかわらず、「お子さまたちが何やってんのかとwww」という態度を見せておくことは、若くて「理想」に燃えているフリーダム・ファイターにはけっこうじわじわ効くだろう。誘拐の標的になりやすい資本家としては、そのようにふるまうことで、心理的に正しく効果的に防御しつつ攻撃もできるだろう。

しかしそれから35年以上も経過した現在の段階での「理解」は、これは明らかに「赦し」だろうと思う。「もういいよ」と。


TG4のドキュメンタリー、「IRAの女性たち」については、下記キャプチャ内の下2つの記事など。


TG4の番組表から:


一応、TG4のアーカイヴから見られそうなのだけど、今はエラーが出ている。
http://www.tg4.ie/en/tg4-player/tg4-player.html
※右側のDocumentariesをクリックし、下に出てくる各番組詳細で、"Mná an IRA" のEpisode: 1 Date: 05/01/2012を選択。

別のところでちょっと見てますが、決定的だったのは、やはり1972年1月30日のデリーですね。その前から彼女は「ダイレクト・アクション」(政治、というか投票して選んだ議員による代議制と行政機構の二人三脚という制度によらない、人の直接行動で事態を変えようという方向性)の人ではあったにせよ、英国がコロニアル・パワーであること、植民地でやってきたこと(インド、ケニアなど)がまさにそこでおこなわれていることを目の当たりにして、決定的な衝撃を受けた。これは、北アイルランドの「カトリック」の若者たちが、デリーのブラディ・サンデー事件によって、それまでは「一部の過激な人たち」でしかなかったIRAに自分も入ろうと思った、と述べているのと共通。

1968年までは暴動のボの字もなかったような田舎町のデリーで平和的デモ隊に警官の警棒が振り下ろされるような状況が常態化していったことも、このTG4のドキュメンタリーでは解説されています。相変わらず、すばらしいキメの細かさ。

※この記事は

2012年01月08日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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