「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2012年01月05日

【パブリック・ドメイン: Internet Archiveで聞ける音源】ジャンゴ・ラインハルト(ギタリスト)

さて、年が明けて、@Tristan_Tristanさんが「没後50年で著作権失効→青空文庫入り」の作家・文筆家・思想家について、Togetterで一覧できるようにしてくださっている。

今年元日にパブリックドメイン入りした作者たち
http://togetter.com/li/235521

小川未明、津田左右吉、柳宋悦、知里真志保といった人々の著作権が切れてPD入りしたのが今年だった。来年は「吉川英治、柳田国男、室生犀星、正宗白鳥といった人々の作品がパブリックドメイン入りします」とのこと。超ビッグイヤー。(この前は、坂口安吾がPD入りした年が超ビッグイヤーだったと思う。)

英語圏では、何かいろいろもめていてぐちゃぐちゃのぐにゃぐにゃでよくわからないことになっていたジェイムズ・ジョイスが、没後70年で誰からも何の文句も出ない形でPD入りした。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.bbc.co.uk/news/uk-northern-ireland-16377358

ジョイスがPDになったからって、その文字による芸術作品(と、それを「翻訳する」という作業のまるで修行のようなあれこれ)の敷居の高さから、まずは「誰得」感に圧倒されるのだが、これからは読みたいときに、プロジェクト・グーテンベルクあたり(あるいはジョイスのアーカイヴのサイトなど)で『ダブリン市民』などが読めるのだな、と思えば、やはり感慨深い。この「ものすごい10年間」(あとで書く)の始まりの年に、ジョイスというちょっとハズした立ち位置のアイルランド人の遺産がPD入りしたということも、また思わせぶりでこのー、このー、このー、という感じだ。

というわけで、パブリック・ドメインな話題に口元を緩めてもらったので、私も前からやっておきたかった、ジャンゴ・ラインハルト(1953年没)の音楽の情報源の整理をしてみた。

ジャンゴ・ラインハルトは1910年、ベルギーで生まれた。両親はロマの旅芸人。ジャンゴはニックネームで「私は目覚める」という意味だそうだが、まさに米国の「黒人」たちの音楽だったジャズが欧州にもたらされたときに、その新しい音楽にギターという(当時は脇役だった)楽器で、新しい息吹を吹き込んだ、いわば「夜明けの人」だ。

その音楽は、今の耳で聞くと、正直、「新奇さ」は感じられないだろう。当たり前だ。ちょうど、現代の英語話者が「シェイクスピアの言葉遣いの何がすごいのか、わからない」とうのと似ていて、彼が始めたスタイルが、(いろいろと混交しつつ、また発展しつつ)その後の標準になっていったのだから。

ジャンゴのギターの音楽は、とにかく「豊か」だ。そして、基本的にダンス・ミュージックだから、明るく軽快で、カラフル。時代性だとか民族性だとかいった難しいことを考える前に、とにかく音に接してみるべき。

下記でいろいろと聞けるようになっている(or 聞けるところをリンクしてある)ので、ぜひ。

※この記事は

2012年01月05日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:50 | TrackBack(0) | 雑多に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼