「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2011年12月28日

津波と楽器と、坂本龍一のオンライン・ストリーム

イラクで、1日で69人の生命を奪った連続爆弾事件で例の組織が犯行声明を出したというニュースがあった。それを読んで思い出したのだが、数年前、英国に難民申請したイラク人(対英軍協力活動従事者)が「もうイラクは安全なので」という理由で申請を却下されるということがあった(それは「炉内の様子はわからないし燃料がどこにあるかもわからないが、事故は収束した」という日本国政府の「宣言」の態度と、非常によく似ている)。「時間が経てば問題は変わる time for war, time for peace」というのは、必ずしも「楽観的」とは言われないであろうような態度だが、「今がtime for warなので、次はtime for peaceになる」と常に前提しておくのは、まちがいなく「楽観的」(それも「バカ」のニュアンスでの)なことだ……ということを、オンライン・ストリームされたあとiTunesでリリースされた坂本龍一の音源を聞きながら、ぼんやりと。

25日から28日の4日間、東京での坂本龍一のコンサートがオンラインでストリームされているる。(坂本教授に関しては、この1年ですっかり「それが当たり前」になってしまった感があるが、実はそれはものすごいことだ。それでも中継は、チケットを買って、実際に会場に足を運んでこそえられる体験……空気の振動に直接肌で触れること……には絶対に及ばないのだが。)

今回のストリーミングは、津波の被害を受けた「子供たちの使う楽器」のためのファンドレイジングの活動として、おこなわれている。サイトから:
http://www.skmtcommmons.com/topics/index.html
●USTREAM、YouTubeでのインターネットライブ中継配信(無料)

2011年韓国公演を皮切りにスタートしたソーシャルメディア上の実験プロジェクト「サカモトソーシャルプロジェクト(#skmts http://skmtsocial.com/20110802/ )」の流れを汲み、基金の活動をより幅広い方々に広げるため、またより多くの方からのご協力を頂くため、コンサートの模様を無料で全世界に向けてインターネット配信することが決定しました。

今回のライブ中継はすべてチャリティーとして行われます。画面上に用意されたオンライン募金ボタンを押していただくことで、「こどもの音楽再生基金」へ寄付していただくことが可能になります。みなさまの温かいご支援を心からお待ちしております。


28日は最終日。午後7時から、YouTubeで中継される。
http://www.youtube.com/user/rskmt09

震災のあと、というか津波のあとの「楽器」の写真は、ずいぶんたくさん見たと思う。

いや、実はそんなにたくさんの点数は見ていないのかもしれない。でもとにかく、「たくさん見た」気がしている。水に沈んだピアノ、泥(ヘドロかもしれない)に埋もれたギター……

それらは、広く一般に「がれき」と呼ばれているものだったが、それらをそう呼ぶことはあまりにつらいことだった。しかし呼び方を何とかすれば、その光景、その事象のひどさが軽減されるというものではなく、それをどう呼ぼうともその光景が目を覆いたくなるようなものであることに代わりはなかった。

以下、「NAVERまとめ」で作ったページを貼り付ける。






※この記事は

2011年12月28日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 05:20 | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼