「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2011年12月26日

エジプト、ブロガーのアラア・アブデルファタさん、釈放(ようやく!) #AlaaIsFree

Egyptian judge frees anti-junta blogger
http://www.guardian.co.uk/world/2011/dec/25/egyptian-judge-frees-blogger

10月30日に、ほとんど「言いがかり」をつけられて軍政当局に引っ張って行かれ、その後、同じく「言いがかり」で起訴された @Alaa こと、アラア・アブデルファタさんが、ようやく、釈放された。Twitterではハッシュタグ、 #AlaaIsFree ができている。



アラアはこの1月から2月にかけてのタハリール広場からのAJEの中継などでも、時おり情勢の報告や解説をしていたが、ずっとずっと前から軍政に対して抗議の声を上げてきた活動家の1人だ。2006年には軍事法廷に反対する運動を起こし、ムバラク政権下で投獄されている。お父さんは法律家として人権(反拷問)分野で活動し(ムバラクの独裁政権下でNGOを立ち上げている)、お母さんも「民主化」運動の担い手だ。アラアも妹のモナさん @monasosh もアラビア語と英語を使ってブログやTwitterで情報を発信している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Alaa_Abd_El-Fattah

今回、彼が獄に放り込まれている間に、夫人の @manal さんが夫妻の初の子を出産した。生まれた男の子は、ハレド Khaled と名づけられた。

ようやく、我が子を好きなだけ膝に乗せていられるという時間を得たアラアの姿を、モナさんが撮影して、ツイートしている。





一方、シリアで拘束されていた @RedRazan も、数日前に釈放された。

エジプトでもシリアでも、「(英語話者の間で)有名なブロガー」が釈放されたことを祝いつつ、今なお当局に拘束され、または不法な裁判によって有罪とされ投獄されているブロガーや平和的抗議運動の活動家の解放を求めていかねばならない、という声が、Twitterでは多く見られる。



下書きからサルベージ。アラアが逮捕されたときのガーディアンのトップページ:

※この記事は

2011年12月26日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 04:55 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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