「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2011年10月30日

アイルランド共和国大統領選挙、結果確定。

アイルランド共和国の大統領選挙は、最終結果が確定した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Irish_presidential_election,_2011

当選したマイケル・D・ヒギンズは、ファイナル・カウント (Count 4) で1,007,104票(56.8%)、2位のショーン・ギャラハーは同628,114票(35.5%)だった。シン・フェインのマーティン・マクギネスは(実際に最初っから当選する気などなかったのではないかと思うが)「3位」という結果を残した。(これで「シン・フェインはアイルランド共和国の政治地図では取るに足らない存在である」というこれまでの定説を覆したことになる。)

同時に行われたダブリン・ウエスト選挙区の下院議員の補選(亡くなったブライアン・レニハンの議席)は労働党が取った。これで首都ダブリンからフィオナ・フォイルの議席が消えた。
http://www.irishtimes.com/newspaper/breaking/2011/1029/breaking4.html

また、同じく同時に行われた2件の憲法改定(改正)レファレンダムは、判事の給与に関する1件は承認され、パブリック・インクワイアリの実施に関する議会の権限拡大を求める1件は否決された。
http://www.irishtimes.com/newspaper/breaking/2011/1030/breaking5.html

関連記事の一覧として、アイリッシュ・タイムズのトップページをキャプっておく。



今回のこの大統領選挙の意義については、アイリッシュ・タイムズの社説がまとめてくれている。

The Irish Times - Saturday, October 29, 2011
President Michael D
http://www.irishtimes.com/newspaper/opinion/2011/1029/1224306732030.html

余裕があったら、あとで少し詳しく見ていきたい。(追記予定)

なお、アイリッシュ・タイムズは浮かれ気分でついつい本音をもらしたようだ。
http://www.broadsheet.ie/2011/10/29/sean-gallagher-for-an-independent-runner-up/

(ショーン・ギャラハーはFFを離党し、無所属色を強く打ち出して今回の選挙戦をたたかった。)

※この記事は

2011年10月30日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼