「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2011年10月20日

リビア、ムアンマル・カダフィ死亡(殺害)(付:なぜ写真は切り取られたのか)

Twitterでも書いているが、情報の確認はBBCで:
http://www.bbc.co.uk/news/world-africa-15387872

(アルジャジーラ、アルアラビヤなどは「速報合戦」が起きていて信頼性が低くなっている。)

しばらくこの件でモニタに張り付いていた。この男をハーグに送るという当初の目的はどこにいったんでしょうね。(など、情報量過多と、リビアの「フリーダム・ファイター」の勝手な言い分と、予想されていた最終的結末が実際に起こったこととで、頭がぐるぐるしていて、ふだんならしないような間違いもしている。レバノンとヨルダンを打ち間違えたり。)

最初にBBC NewsがBreakingで伝えたときのもの。20:20過ぎ。



「死亡」がほぼ確定(BBC独自でのコンファームはできていない)の段階:



実はBBCはまだ、カダフィの死亡をコンファームしていない。上記キャプチャでも引用符(カギカッコ)つきで「死亡」と書いている。(日本語の見出しの作法でいうと「死亡か」の「か」がついた状態。)

おそらくこのあとNTCの会見があって、そこでコンファームされるのだろう。

さて、これを、発端からほぼずっとTwitterで見ていたのだが、もちろん「死亡説」の前に「拘束説」があった。そして人々のツイートから「拘束説」の「説」が取れた(情報源がNTCということで「またNTCのフカシか」という見方がだいたい消えた)のは、「拘束されたカダフィの写真」が出たときだった。これが、現場にいた誰か(NTCの戦闘員だろうが)が携帯電話のカメラで撮影したもので、最初にAFP(フランスの通信社)に流れた。それをガーディアンが掲載したのだが、本質的な部分に影響する部分ではないのかもしれないが、微妙に加工がしてあった。

その加工の理由がわからないので、メモっておく。

※以下、流血写真にモザイクもなにもかけてない状態のキャプチャを載せるので、そういうのいやな人は「続きを読む」から先は見ないようにしてください。

まず、AFPに流れた写真だが、こういう性質のものだ。



上記は英Sky Newsの記者のツイートで、「出回っているこの写真は、ビデオの止め絵だ」ということを指摘し、「ということはビデオ映像が出てくるのかな」と述べているもの。

最初にこの写真(AFPが配信した)が流れて少し時間が経過したときのツイートだが、この写真を英語圏大手メディアで最初に掲載したのがガーディアンだった(AFPそのものは別)。

【以下、写真注意】

しかしそのとき、ガーディアンの画面はこうだった。



画面の下のほうがカットされていることは、別メディアの掲載した写真で確認できる。例(単に自分がフォローしているので黙っていても情報が入ってくる媒体として)Foreign Policy:





※この記事は

2011年10月20日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:49 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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