「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2011年09月19日

「6ヵ月後の福島」を伝える英ガーディアン記事 (1) ――大熊町の百合の花

さて、既に1週間以上前のことになるが、東日本大震災から半年となった週に、英ガーディアンで2本の記事が出た。こういうことを英語で(←重要)伝えてくれる記者さんとメディアが存在することに、まず感謝したい、と私は思った。

1本は8日付、トピックは、福島県大熊町の住民の方々の一時帰宅。ガーディアンの日本特派員であるジャスティン・マッカリー記者の記事で、記者とマイケル・コンドンさん(東京ベースの映像作家さん。ご本人のツイート)の取材によるビデオ(6分13秒)がついている。このビデオは大半が「言語は日本語で英語字幕」なので、英語はちょっと、という方にも見ていただきたい。

Japan disaster: Fukushima residents return to visit their homes
Justin McCurry in Okuma, Fukushima prefecture
guardian.co.uk, Thursday 8 September 2011 19.23 BST
http://www.guardian.co.uk/world/2011/sep/08/japan-nuclear-disaster-fukushima-homes

もう1本は、マッカリー記者の前のガーディアン日本特派員で、現在は北京を拠点とするガーディアン環境部門、ジョナサン・ワッツ記者の重厚な記事。東京を拠点とするフォトグラファーのジェレミー・スーテイラトさん(とお読みするのだと思う。フランス語話者)の、一度見たら忘れられない写真が掲載されている。

Fukushima disaster: it's not over yet
Jonathan Watts
guardian.co.uk, Friday 9 September 2011 23.01 BST
http://www.guardian.co.uk/world/2011/sep/09/fukushima-japan-nuclear-disaster-aftermath

以下、それぞれについて少し詳しく。

まず、ジャスティン・マカリー記者の大熊の報告。
http://www.guardian.co.uk/world/2011/sep/08/japan-nuclear-disaster-fukushima-homes

この記事に対するはてなブックマーク:
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.guardian.co.uk/world/2011/sep/08/japan-nuclear-disaster-fukushima-homes

記事は付属の映像のレポートを文章化したような感じだ。記事に日時は明示されていないが、この一時帰宅に同行取材が許可された外国のメディアはガーディアンだけだったそうだ (The Guardian was the only foreign media permitted to accompany them.)。

大熊町の一時帰宅については下記など:


日本語報道で当然のものとして用いられている「一時帰宅」という表現さえ的確なのかどうか、私にはわからない。「帰宅」であることは確かだが、「一時自宅訪問」、「自宅立ち寄り」と言ったほうが実態に即しているだろう。実際、町役場でも「警戒区域への一時立入り」と表現している。「一時帰宅」はメディア語か、政治サイドのメディア向けの言葉だろう。

英国人記者は、木幡たかしげさん(ビデオに表札が出てくるので名字の漢字はそれにならった)という60代の男性の「帰宅」に同行する。家に入るなり、木幡さんは風呂場の窓が割られているのに気づく。避難後、泥棒が入ったようだ。「被災者を狙うなんて」と木幡さんは憤りを示す。

記者は「侵入者は悠々と盗みを働いていったことだろう」と書き、福島第一原発周辺20キロ圏が「立ち入り禁止区域」となっていることを説明する――「20キロ圏内の住民およそ8万人は、地震・津波の発生から数時間で、避難するよう指示された。この日、木幡さんと近隣の人々200人以上は、運べるだけの所有物を取りに短時間の自宅訪問を許可された。多くの住民が、自宅に来るのはこれで最後になるだろうと認識している。防護服、マスク、ゴーグルに身を固めた住民の人々は、わずか2時間の猶予で、家の損壊の具合を確認する。」……

記者は木幡さんとは別の、山田くにこさんという50代の女性にもインタビューしている。「放射能があるから帰宅できないといわれました。戻れたらいいなあとは思いますが、それには20年、30年とかかるでしょう。そのころには私はもう死んじゃってますよ。」

記事に目を走らせながら、私は記事を読む前に見ていたビデオの映像を思い出している。木幡さんの、建ててからまだそんなに時間の経っていないご自宅の中の、かわいらしいステンドグラスの施された木のドア。普段、丹精込めて手入れなさっていたことは明らかな庭はどんどん「ジャングル」化している。雑草に混じって白い立派な百合の花(カサブランカだろうか)が、「にょきにょき」としか形容のできないさまで、繁茂している。取材時、木幡さんのご自宅は、甘い香りに包まれていたに違いない。

うちの近所にも最近更地になった場所がある。この季節だとものの何日かで草ぼうぼうの状態になり、ねこじゃらしなどいくつかの種類を除いては、私は「草」としか認識していないような植物が繁茂している。もっと気合の入った草むらだとつる性の植物なども出てくるのだが、そこまでジャングル化する前の段階。

そして、思い出すのは、複数のメディアのウェブサイトや書籍などで何度も見た、チェルノブイリ。

7月末の当ブログ:
夏の日差しの中のチェルノブイリ(報道カメラマン、冨田きよむさんの報告)
http://nofrills.seesaa.net/article/217560980.html



「放射能汚染」というコンテクストがなければ、思い出すのはチェルノブイリではなくほかの「廃墟」だっただろう。しかしいずれにせよ、今現実に大熊がジャングル化しているのは、「廃墟」になるある程度の必然性――開発業者が撤退した、地権者が誰なのかわからない、鉱山だったが閉山した、など――があってのことではない。まったく理不尽なことだ。

ガーディアンのビデオの木幡さんの表情(顔はほとんど見えないが、声やたたずまいを含めて)、この人たちを襲った「理不尽」。

自宅にいるのに全身を防護服で覆い、マスクをしている。ふと集中力が途切れた瞬間、なんだこれはと思う。なぜこんなことが現実に起きているのか、私にはよくわからない。でももっとよくわからないのは、こういうことが平然と起きていることだ。どこの不条理喜劇ですかという。

「ミスター大丈夫」山下俊一教授がまたしでかしたトンデモ発言
2011年09月13日(火) 週刊現代
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/19050

(ここで「ただしソースは現代」とかって嘲笑するヒマがあったら、別ソースで同じ記事探した方がいい。てか、元はシュピーゲル。この記事は、見出しが煽りであったり、記事が煽りであったりすることはその記事が伝えようとしていることを必ずしも減殺はしない、という一例だ。)

リンク先の冒頭にあるシュピーゲルの記述の日本語訳は、私は自分だったらあの英文からそういう翻訳はしないのだけど、元々の発言は日本語だろうし、まああまり、「言い方」としての厳密さは要求できない。

……

「逃げるか残るか、決めるのはその人自身です」

「福島の子供たち36万人の甲状腺を調べる。チェルノブイリの調査では、被曝から発がんまで5年かかることがわかった」(同誌)

 これまで「福島の放射線量は全く心配ない」「子供たちも外でどんどん遊んでいい」と安心・安全を主張してきたのが一転、「福島はチェルノブイリのようになる」と言わんばかりだ。

 過去の講演会では「年間100ミリシーベルトまで安全」という持論を展開してきたが、最近は「100ミリシーベルト以下は何とも言えない」に変わっている。……

 その山下教授が1日、がん征圧の功労者に贈られる「朝日がん大賞」を受賞したから驚きだ。……

閑話休題。ガーディアンのマカリー記者の記事に戻る。

「一時帰宅」する住民の皆さんと一緒にバスに乗ったマカリー記者は、警察のチェックポイントを通過したときの様子を次のように描写している。
All traces of ordinary life have been cast in eerie suspension: roadsides are overgrown with grass and weeds; shops and restaurants lie empty, and grand farmhouses – evacuated in the hours following the accident, when Tepco officials were considering abandoning the plant – stand quiet and deserted. Toppled walls and scattered roof tiles are reminders of the staggering force of the quake that caused the world's worst nuclear crisis since Chernobyl.

The only sound is the chirping of late-summer cicadas and the occasional beep of a Geiger counter. A scrawny black dog wanders into the road, sizes up his human visitors and scampers back into the woods.

And just visible above a line of trees is the roof of one of Fukushima Daiichi's reactor buildings. As our bus drives past, radiation levels inside surge to 61 microsieverts an hour (compared to the typical Japanese average of 0.34 microsieverts).Elsewhere inside the exclusion zone, at least 1,000 cattle are roaming wild after escaping from their farm homesteads, according to local authorities. Most pets, and tens of thousands of cows, pigs and chickens have starved to death.

A few days after residents returned to their homes, police officers and firefighters resumed the search for almost 200 tsunami victims in the area still listed as missing.

日常生活の痕跡がすべて、不気味な感じでどうとも決着つかぬままになっている。道路脇は雑草が伸び放題。商店や飲食店はからっぽのまま。そして農家の大きな家は――事故後の数時間で退避させられたが、そのとき東京電力の上級職は福島第一原発から全面撤退することを検討していた――ただ静かに、無人のままたっている。倒壊した塀や散乱している屋根瓦が、チェルノブイリ以降世界で最悪の核危機を引き起こした地震の凄まじさを物語っている。

聞こえる音といえば、晩夏の蝉の声と、時おり鳴るガイガーカウンターの音だけだ。ガリガリに痩せこけた黒い犬が道路に出てくる。そして急にやってきた人間たちの様子を見て、林へと急いで戻っていく。

林の向こうに、福島第一の建屋のひとつの屋根がかろうじて見える。バスは進む。車内での放射線量は61マイクロシーベルト毎時を指す(日本での平均的な値は0.34マイクロシーベルト毎時だ)。地域の自治体によると、立ち入り禁止となっている区域では、少なくとも1000頭の牛が牛舎を出て野生化しているという。ペットや数万頭の牛・豚・鶏たちが、餓死している。

「一時帰宅」の数日後、警察と消防が、この地域でまだ消息不明となっている200人ほどの津波の犠牲者の捜索を再開した。

一時帰宅がおこなわれた9月1日の段階ではうちのあたりでも蝉ちゃんはやかましかった(今年はみんみんぜみが多かった、というかあぶらぜみが少なかったような……)。犬たち、牛ちゃんたち、ねこさんたちについては、3月以降、レスキューの活動をされている方々の情報発信を、私もほんの少しだけだが、フォローしている。

例えば被災地に入って救出・餌&水やりの活動と、動物たちの被災の記録を続けておられる写真家の太田康介さん(下記は「福島」のカテゴリのページ)。
http://ameblo.jp/uchino-toramaru/theme-10035137510.html

双葉町出身の女優で、被災動物の牧場&シェルターづくりの活動に、任意団体を作って取り組んでおられる矢口海さん。
http://ameblo.jp/0363arty/

太田さんの下記の写真は、まさに言葉を失う写真。「言葉」が主役のひとつなのだけど。人間といっしょに安穏と暮らしていたであろう動物が、こんなふうになってしまった。
http://ameblo.jp/uchino-toramaru/entry-11009698930.html

もうひとつ。もう、毛と歯でしかない。うちの犬が天寿を全うする前にこんなふうになっていたらと思うだけで、夕方になるとそこら辺を散歩しているよその犬さんたちに、謝りたい気分になる。君らの仲間をこんなふうにさせてしまった、ごめん、と。
http://ameblo.jp/uchino-toramaru/entry-11003568034.html

ダチョウ。この写真は、崇高だ。(最初に見たときに、ただ手を合わせた。「市の街」となった商店街、地面に落ちて割れている瓦と、おそらくもう二度と人間とは仲良くなれなくなってしまったであろう柴犬さんと。)
http://ameblo.jp/uchino-toramaru/entry-10983600827.html

これらのお写真の背景にある、つんつんと突っ立った感じの雑草(ヒメジオンとかだと思うが)が、ところかまわずにょきにょきと生えてきて、そこらじゅうを覆う、という光景。それがガーディアンのビデオに出てくる。

ところで、ガーディアンは、上記引用部分にリンクがあるように、東電が全面撤退を菅直人首相(当時)に打診していた、とかいうとんでもない件(→ガーディアンのこの記事より後になるが、9月12日のNHK報道:菅氏は…「『撤退したいのか』と聞くと、清水社長は、ことばを濁して、はっきりしたことは言わなかった。撤退したいという言い方もしないし、撤退しないで頑張るんだとも言わなかった。私からは、『撤退は考えられない』と強く申し上げた」)についても、個別に英語で報じてくれていた英語圏の大手メディアのひとつだ。

再度閑話休題。9月8日のガーディアンのマカリー記者の記事に戻る。

地域の雇用の受け皿であった東電を公然と非難しようとしない人たちもいる、と記事は報告している。木幡さんの近所の人で、匿名を希望した60代の女性(ビデオで「バスを降りてびっくりした。こんなになっているとは……想像以上です」と語っている女性)は、「津波の前は、原発のことなど心配したことはありませんでした」と語っている。そして、「3月11日に退避したときには、1週間か10日で戻ることになると思っていました」と当時のことを振り返っている。この女性は、爆発が起きはじめてもなお、ここまでひどいことになるとは思っていなかった、という。「この辺りでは、原発があるからおまんまが食えるというのが実情でした。今、自分が感じていることは、どういう言葉で言い表せばよいのかわかりません。」

そう語る女性は、自宅から貴重品とご先祖のご位牌を持って出るのだという。「仏壇は地震でめちゃくちゃになってしまいましたけど、せめてお花を供えようと持ってきたんです」と。

そして園芸が趣味だった彼女の庭は、ひょきひょき生えた雑草類で荒れ放題となっているが、それでも雑草の中に、育てていた花がいくらか咲いている。「私はお花が大好きですから、ちゃんと世話してあげられなくてごめんね、とお花に言ってあげたんですよ」と女性は語る。

彼女の家の中は地震の揺れでめちゃくちゃになっている。「こんなことになるなんてねぇ……戻ってきたいとは思いますが、希望をやめたほうが、精神の平安のためにはいいのかもしれませんね」。

一方で木幡さんは、地域の自治体職員として昨年、福島第一原発に昨年MOX燃料が到着するのを見ていたような人だが、東電を辛辣に批判している。生まれてこの方ずっとこの地域に暮らしてきて、最近家を新築したばかり。お父さんは、津波を生き延びた多くの高齢者と同じように、避難してほどなく、他界した。

木幡さんは「原発事故は、人災です」と言う。「政府と東電は、私たちに、こういうことは起きないからと常に行っていました。東電は、トラブル隠しとなると今でも変わっていない」。

この点は18日付の河野太郎衆院議員のブログ、「やつらが隠してきたもの」に詳しい。
http://www.taro.org/2011/09/post-1091.php
一部(強調は引用者による):
「制御棒の想定外の引き抜け」と称される事故は、この
1978年11月の福島第一三号機の事故を最初に、
1979年2月東京電力福島第一原発五号機、
1980年9月東京電力福島第一原発二号機、
1988年7月東北電力女川原発一号機、
1991年5月中部電力浜岡原発三号機、
1993年6月東京電力福島第二原発三号機、
1996年6月東京電力柏崎刈羽原発六号機、
1998年2月22日福島第一原発四号機、
1999年6月18日北陸電力志賀原発一号機、
2000年4月東京電力柏崎刈羽原発一号機、
2007年6月東北電力女川原発一号機とたびたび起きています。

過去のこうした事故が隠蔽され、事故情報が共有されなかったことが次から次とこうした事故が起きた原因だと思われます。原子力村の隠蔽体質がいかに安全を損なってきたか、それに対して政府がいかに穏便に済まそうとしてきたか、よくわかります。……

マカリー記者の記事の最後は、大熊に到着してわずか2時間で、住民たちは帰りのバスに乗り込んだ、というセグメントで結ばれている。

立ち入り禁止区域から出るときには放射線量のチェックを受けねばならない。3-11直後に被災地に入った取材者のどなたかが、外気にふれていたカメラバッグが基準を超えていたので捨てなければならなかったとTwitterで報告しておられたのを今思い出したが、その後、確か、基準値自体が引き上げられている。それでも、せっかく持ち出したものを諦めなければならない人もおられるだろう。

そしてそのことに対し、「これまでさんざん原発マネーで(云々)」的な罵詈雑言が、数としてはどんなに少なくてもやはり、投げつけられることもあろう。

うちら、東京都民がどんな目にあっても「これまで首都として優遇されてきたんだから」と罵られたら……と考えてみるだけで、寒々としてくる。

避難後、家に泥棒に入られていた木幡さんは、おそらくもう戻ることのない家に鍵をかけて、家をあとにした。「私に関する限りは、これで我が家の見納めです」。築年数がまだ新しいその家を、木幡さんは最後にじっと見つめる。「最後に(家に)お礼を言いたかったんですよ。あとは次にいかねば」。

なお、マカリー記者は8月の段階で既に、原発周辺の区域では人々は家に戻れないだろうということを報じている(8月22日付)。正直、英国は直接的には福島第一の事故には関係がなく、したがって英国の新聞が福島の原発事故のその後について、さほど熱心に報じていなくても当たり前なのだが、実際にはガーディアンは継続的に、とても熱心に報じている。8月のこの記事もまた、日本の新聞の「ベタ記事」の感覚からは考えられないほどたっぷりとした情報量だ。
http://www.guardian.co.uk/world/2011/aug/22/japan-nuclear-disaster-radiation-levels



マカリー記者の大熊町からの報告の記事が出た翌日、ガーディアンには下記の報道があった。「福島第一の事故にもかかわらず、英国の一般からの原子力への信頼はゆるぎない」という。英国人の41%が、「原子力発電のメリットはリスクを上回る」と考えているという世論調査の結果が出たそうだ。

UK public confidence in nuclear remains steady despite Fukushima
Alok Jha The Guardian,
Friday 9 September 2011
http://www.guardian.co.uk/science/2011/sep/09/nuclear-power-popular-in-uk

この「メリットとリスク」は、福島第一の事故の直後に、英国政府と業界が総力で仕掛けた情報戦での主張のひとつで、特に「発電のために化石燃料を使った場合の死者数は、原発のそれよりずっと多い」という乱暴な論が中心である。(この論では「放射性廃棄物」という大問題はスルーされるのがお約束。英国ではとりあえず100年待っても大丈夫、という感じらしい。後述)

英国のような核大国で、そんな「ごまかし」が通用するなんて、と思うかもしれないが、実際に通用している。実際、英国では――あの小さな島で――、福島第一原発の事故後に、イングランドの北の方で、低レベル核廃棄物処分場の建設に事実上のゴーサインが出されたのだが(長年、「凍結」の状態にあったものが、今の保守党&LD連立内閣で解凍されたようだ)、メディアの注目は非常に低かった(「大ニュース」になっていなかった)。
http://www.bbc.co.uk/news/uk-13537828

ところで、9日の「原子力発電のメリットはリスクを上回る」の記事の写真は、ダンジュネスの原発だ。ダンジュネスは、HIV陽性が確認されていたデレク・ジャーマンがロンドンから移り住んだ場所で、私も訪れたことがあるが、とにかく本当に、「何もない」。少し内陸のほうに行くと湿原があって野生の鳥の保護区になっているのだが、海岸近くは「何もない」。猛烈に風が強く、高さのある植物は生えないので樹木がない。海まで続く小石(砂ではなく小石)の海岸と、古い灯台と、新しめの灯台と、錆びた線路と……の平面の向こうに、原発が見える。Google Street Viewで行けるところまで行くと、ぽつぽつと家が点在しているものの、不思議に荒涼とした光景のなか、遠くの方にその建物が見えるのが確認できる。(むろん、GSVの撮影車でなければ人間はもっと先のほうまで行けるから、別の角度からも見ることはできる。)

ダンジュネスにはAとBの2つの原発がある。Aは2006年いっぱいで操業を終え、今は燃料も抜き取られているようだ。跡地は中レベルの核廃棄物の貯蔵施設となるとのことだ。これがまた「100年計画」で(「2111年までに……」が平気で語られている)、皮肉交じりに、さすが核保有国、と嘆息したくなる。そのほか詳細はウィキペディアおよびそのソースで。
http://en.wikipedia.org/wiki/Dungeness_nuclear_power_station



ジャスティン・マッカリー記者の記事は、当ブログでは過去に下記などで言及している。

2011年05月09日 被災地の医療スタッフさんの手記が英訳され、ガーディアンで紹介されている。
http://nofrills.seesaa.net/article/200104046.html
※震災発生直後に陸前高田に入った医療チームの看護師さんのブログ(匿名の翻訳者によって英訳されたもの)の紹介。

2011年07月14日 「原発ジプシー」(英ガーディアンの記事)
http://nofrills.seesaa.net/article/214738482.html
※現場作業員さんにインタビューするなどした詳細な記事。いわき市の「特需」についてなども。

もう1本のジョナサン・ワッツ記者の記事についても同じエントリにしたかったが、既に十分に長いので、別項とする。

※この記事は

2011年09月19日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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