「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2011年09月11日

10年が経過、という日の英メディアのトップページ(アイルランド共和国のも少し)

この年に生まれた子供が10歳になっている。



上記は午後7時(日本時間)前のBBC Newsのトップページのキャプチャ。(画像内見出しクリックで記事が開きます。)

この1週間か10日くらい、「あれから10年」の特集記事を連日掲載してきたガーディアン/オブザーヴァーは、こんなふう。



インディペンデントは:



……というように、わりと静かだ。

一方でデイリー・テレグラフ(テレグラフ・オン・サンデーの日だが)はぶちぬきの、「特別大きなニュース」のテンプレで、10年前の光景をメインに見せるスライドショーをつけている:



他方、サンデー・タイムズは、アクセスしたときには911の影も形もない。



トップページ左上の、今はオズボーン財務大臣の写真が使われている「今日の主な記事」の次の画面(5件目)で、クリストファー・ヒッチェンスの書いた記事が示されるようになっているが、それ以外は外見的には本当に「完全スルー」の状態。今はそれよりリビアで忙しいようだ。

ちょっとお隣の島に飛んでみると、アイリッシュ・タイムズはこうだ。



ところで、ツインタワーの倒壊で現場に直行したニューヨークの消防士には、伝統的に、アイリッシュが多い。かなり時間が経過してからだが、薄い知り合いであるイングランド人(ロンドナー)は雑談の中で、そのことを理由として、「IRAがロンドンを攻撃していたときに、米東海岸から反応はなかった」と冷笑していた(わからんでもないけど……IRAの大きな資金源がどこだったかということを考えれば)。彼はすべてに対して冷笑的な態度を取る人だが、「だからまったく、僕はシンパシーを覚えない」という言葉には、いつもの冷笑とは違うものを感じた。

話がずれたが、ともあれ、アイルランドの大手新聞でも、トップページに大きく出ている「アメリカ」のイメージ(画像)はラグビーの国際試合(アイルランド対USAでアイルランドが勝った)であって、「10年前の出来事」ではない。(文字では911がトップだが。)

ほぼ同じタイミングでチェックしたRTEはこうなっている。






10年前、まだ「ブログ」というツールがなかったころに「とほほ」さんのスクリプトをお借りして自分で設置して設定した「自分しか書き込めない掲示板」のログ。何年ぶりで見ただろう。



日本でBSEが発生したのと、911とがほぼ同時だったことは覚えていた。でも台風のことは忘れていた。IDS(今は雇用年金大臣)が保守党党首になったのもこの時期だったとは、まったく覚えてすらいなかった。

承前、2ページ目:
http://homepage2.nifty.com/nofrills/news_september2001_2.html

当時、まだ運営していた掲示板のログ:
http://web.archive.org/web/20041001151244/http://nofrills.hp.infoseek.co.jp/661_680.html
http://web.archive.org/web/20040312033711/http://nofrills.hp.infoseek.co.jp/681_700.html

今、まとまった時間が取れる状態にないのが残念だ。WTCに入っている企業で働いていた知人の無事は、ネットで確認した(まだブログとかなくて、Twitterのようなものももちろんなくて、「ネットで発言する」といえば掲示板やニフティのフォーラム、じゃなければFTP使って自分のサイトを更新しているような時代だったので、今から思えばかなり時間がかかったが、それでも24時間経過しないうちに、その人自身が運営している個人サイトにメッセージが掲示された)。その企業からもステートメントが出され、私はそれについて、日経新聞で読んだ記憶がある。

あの朝、あの建物の中にいて、本当に完全に姿を消してしまったある人のことを、ぼんやりと考えている。年齢はずっと上で、接点は何もなかった人。彼女について書かれたものによって、私はその人の存在を知っている。それだけだ。



UPDATE:
数時間後、式典が行われているときのガーディアンのトップページ:

※この記事は

2011年09月11日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 20:37 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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