「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2011年09月08日

バスラのバーハ・ムーサさん殺害をめぐる調査報告書

イラク戦争でブッシュ米大統領(当時)が「大規模戦闘状態の終結」を宣言してから4ヶ月ほどあとの2003年9月、イラク南部で英軍が拠点としていた都市バスラで、1人のホテル従業員の男性が、反乱勢力と疑われ、英軍に連行された後、変わり果てた姿となって帰ってきた。全身の93ヶ所に負傷していた男性の名前はバーハ・ムーサ Baha Musaさん。26歳。既婚で2人の幼い子供のお父さんだった。

「英軍にとってのアブ・グレイブ事件」(とはいえ、アブ・グレイブのあのひどい状況が発覚するより前に発生している)ともいえるこのケースをめぐって2008年から進められてきた調査の最終報告書が、今日さきほど、公表された。調査委員会の委員長は、英軍に対し、73点の勧告を行った。
http://www.guardian.co.uk/world/2011/sep/08/baha-mousa-inquiry-recommendations

BBC, ガーディアン、インディペンデント、テレグラフをざっと見たところ、テレグラフが非常にわかりやすい記事を出していた。


※キャプチャ画像の記事見出しをクリックすると記事が読めます。

イラク戦争での占領者による暴力について、関心を持ってきた人は下記は読む価値あると思います。(米軍についてはこういうのは非常に多く語られたけど、英軍についてはそれほどでもなかった……。)書いているのは人権・国際人道法の専門家。

Beyond Baha Mousa
Clive Baldwin
guardian.co.uk, Thursday 8 September 2011 15.24 BST
http://www.guardian.co.uk/law/2011/sep/08/baha-mousa-inquiry-iraq-britain-law

以下、メモのみ。はてブにもいろいろメモってあるのでご参照ください。
http://b.hatena.ne.jp/nofrills/20110908

淡々とした時系列の記述は、ガーディアンのサイトにある。
http://www.guardian.co.uk/uk/2008/may/14/mousa.timeline
※ページの一番上に大きく表示されている写真が、ガーディアンでは何度も目立つところに掲示されている写真ですが、大変にむごたらしいものです(暴行を受けたムーサさんのご遺体の顔写真)。合掌

ガーディアンはバハ・ムーサ事件特集ページもある。
http://www.guardian.co.uk/world/baha-mousa

トップページのキャプチャ(画像内リンクはクリックできます)


BBC:


インディ:



Google Newsで:



※この記事は

2011年09月08日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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