「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

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2011年08月14日

だから、IRAであれReal IRAであれ何であれ、「独立運動」ではないと何度言えば……(日本のテレビの北アイルランドについてのトンデモ報道)

デリー(=ロンドンデリー)のアプレンティス・ボーイズの毎年恒例のパレードと、その日に行われるリパブリカンの毎年恒例の大暴れについての日本でのある報道が、激しく間違っている。あたかも「ロンドン暴動があったから、北アイルランドでも暴動になった」かのような報道で、しかも語られることが見事にデタラメだ――と、Twitter友でアイルランド島北西部在住の@preabsanolさんから、お知らせをいただいた

問題の記事はこれだ。


「北アイルランドで独立求める強硬派」って、「アルスター・ヴァンガード」でつか。(違います)(←笑うところ)(詳しくは書かないから各自、下記読んでください)
http://en.wikipedia.org/wiki/Vanguard_Unionist_Progressive_Party

……という具合で、こんなに短い記事で何一つ事実を正確に伝えていない。以下、丁寧に書くのがめんどくさいので乱暴な口調になるかもしれないがご容赦。おかしいところは引用文を朱字にする。

 ロンドンに続いて、北アイルランドのロンドンデリーでも暴動が発生しました。

ロンドンの暴動がデリーの暴動を触発したわけではない。両者に因果関係はない。それどころか「暴動」の背景にある構図もまったく違う。というか、デリー(を含む北アイルランドのいくつかの都市)が夏に荒れるのは、毎年のことだ。今年だから暴動になったわけではない(むしろ、今年は去年より静かだ)。

そのことについては7月に書いている。
http://nofrills.seesaa.net/article/213262400.html
http://nofrills.seesaa.net/article/214082260.html

手っ取り早く見るには下記。
http://en.wikipedia.org/wiki/Parades_in_Northern_Ireland

記事から(映像もついているので映像も見るように):
 13日、ロンドンデリーの中心部で、北アイルランドの独立を求める強硬派がデモ行進を行いました。参加者の一部が暴徒化し、警察車両に火炎瓶を投げ、なかには車両を強奪する者もいたということです。このデモは音楽バンドなども参加する毎年恒例のパレードもあり、今年は1万5000人が集まりました。しかし、独立をめぐる意見の対立からしばしば衝突の原因になっていたということです。

どっからどうつっこんでいいのやら……不勉強にもほどがある。「北アイルランド紛争」を知らないのか?

呆れてものがいえない。

へんかんきーおすのもたるい。

というか、あまりに間違いすぎていて、4度くらい読んでようやく把握して、把握したつもりになっているけど大丈夫かとまた不安になって読み直し…で、都合6回は読んだ。(翻訳チェックでもここまで読み返すことはない。)

とにかく根本的に間違っている。この原稿&記事を書いた不勉強な人は、デリーの「パレード」と「デモ行進」(←これ、間違ってるけどね。自分たちの住んでる街に出てきただけで「行進」なんかしていない)が同一のもので、その行進の中で衝突が起きたと思っている(としか思えない)。

まさか。

少なくとも北アイルランド紛争の基本を踏まえている人ならこういうアホな間違いはしない。

ともあれ。

「中心部のパレード」は「プロテスタント」によるものだ。(実は「中心部」だけではないのだが、その話は「オタク」の領域になるので飛ばす。詳細はこちら。)

一方で「火炎瓶」だの「車両を強奪」だのといったことがあった「デモ行進(原文ママ)」は「パレード」が行われる「中心部」ではないところで行われたもので(←ここがわかっていない。地図見れ)、こちらは「カトリック」によるもの。「プロテスタント」による「中心部のパレード」に対する、反対の意思表示だ(ということになっている)。(これとは別に、プラカード持って立ってるだけの平和的沈黙抗議もあったようだが、何しろ「いつものこと」で報道が少ないのでよくわからない。)

(ただし「行進」はしない。広場などに集結はしているし、集団で行動してはいるだろうけど。。。これも「抗議」といえば「デモ」、「デモ」といえば「デモ行進」っていう熟語でしか考えられないからこうなる。こういう人は、言葉によって何かを正確に描写し、伝達するという作業には向いてない。)

で、超超超超超超超超基本すぎて説明するのは失礼にあたるほどだが、北アイルランドでは「プロテスタント」(ユニオニスト、ロイヤリスト)と「カトリック」(ナショナリスト、リパブリカン)の両者は対立している。これが基本の構図だ。(むろん、個別には例外もある。例えば「宗教的にはプロテスタントで、思想的にはナショナリスト」という人もいる。)

というか、この両者の対立が「北アイルランド紛争」だ。現在は一応、政治的にも軍事的にも「紛争」と呼ばれる局面は終わっているが、「紛争」のメンタリティは終わっておらず、デリー、特にボグサイドのようなところではリアルタイムで人々が「紛争」を生きている。クランベリーズのZombieの世界だ。

それがわかってないから、「中心部のパレード」と「デモ行進(原文ママ)」が「同じイベント」だと思って、こういう文になるんだろう。正確性を犠牲にしてものすごくわかりやすくしてしまえば、「パレード」をつぶそうとするのが「デモ行進(原文ママ)」。両者は同じイベントではない。テレビ朝日の報道(なんだよね、これ)ではその基本が踏まえられていない。

で、ニュース映像では「北アイルランドの独立を求める強硬派がデモ行進」とアナウンサーが読み上げるのにあわせて、フードかぶった若いのが警察のランドローヴァーに火炎瓶を投げつけるという、北アイルランドではおなじみの「暴動」の光景の映像が流れるのだが(車が動いている分、ちょっと激しいけど)、これはボグサイドでの「カトリック(ナショナリスト、リパブリカン)」の「デモ行進(原文ママ)」(以下、「集会」とする)での一幕だ。(なんでこんな映像が撮影されているのかは私はわからないが、昨日からUTVなどで流れていた。)

この映像、よく見ると32 CSMの旗が確認できるのだが(←研究者とオタク専用情報)、32 CSM = Real IRAで、いわゆる「ディシデント・リパブリカン dissident republicans」(1998年の和平合意後に停戦したProvisional IRAから離脱して活動を続けているリパブリカンの総称で、80年代に分派したグループもあれば98年に分派したグループもあり)の集会である。参加者は多く見積もっても数百人規模だ。これは毎年恒例である。背景にはいろいろと深い思想があったりなかったりするのかもしれないが、とにかく現在、感覚としては、「プロテスタントの連中が何かをやる」→「俺らも何かやる」→「集まって警察に火炎瓶投げる」(「反警察」が彼らのイデオロギー。2009年3月に警官が射殺され、今年4月に警官が爆殺されたことを想起されたし)……というようなことだ。

一方、この映像で、炎を上げるランドローバーに重ねてテロップが入る――「このデモは音楽バンドなども参加する」とか「今年は15000人を集めた」と。これはこの「警察に対する火炎瓶投げ大会(毎年恒例)」ではなく、「市の中心部でのパレード」のことだ。

「音楽バンド」は♪おぅいぇい、ろっけんろーるだぜ、べいべ♪みたいなのではなく、ロンドンあたりで一部頭のアレなお年寄りが批判している「ラップ音楽」でもなく、鼓笛隊である。去年のパレードを一般人が撮影したビデオがYouTubeにある。
http://www.youtube.com/watch?v=CK9eDX8bguM


これは、1689年のWilliamite War (Jacobite War) のときのデリー包囲とデリー解放を記念する行事である。詳細は下記参照。要するに、(アプレンティス・ボーイズ=徒弟たちの機転で)「プロテスタントがカトリックを破った」記念の行事で、つまりプロテスタントのお祭りである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Derry

この「プロテスタント」たちは、「暴徒化し、警察車両に火炎瓶を投げ、なかには車両を強奪する」などということは、していない。

また、この「プロテスタント」たちは、「北アイルランドの独立を求める強硬派」でもない(ただの「ユニオニスト」、つまり「NIが英国の一部であり続けることを望む勢力」である)。これはテレ朝が、火炎瓶投げてる連中のことを「北アイルランドの独立を求める強硬派」と間違えているだけの話だが、そもそも、アイリッシュ・ナショナリスト/リパブリカンは「北アイルランドの独立」を求めているのではなく、「北アイルランドのアイルランド共和国との統合 United Ireland」を求めているのである。

「北アイルランドの独立」を求める勢力は、北アイルランドでは一度も主導権を握ったことはないが、上にリンクをはった通り、アルスター・ヴァンガード系とかがある。これはプロテスタント側の超過激派の中のさらに過激派で、ブリテンのナショナル・フロントと結ぶなどしていた勢力だが、広いパースペクティヴから見れば、マージナルで取るに足らない。

で、テレ朝の記事の結びの、「独立をめぐる意見の対立からしばしば衝突の原因になっていた」も完全に意味不明。「独立をめぐる意見の対立」などない。「北アイルランドの帰属をめぐる意見の対立」は常にあって、それは「衝突」などではなく「北アイルランド紛争」の原因であった。

というか、この原稿書いた人、本当に「北アイルランド紛争」知らないんじゃないの?

2003年イラク戦争のとき、イラン・イラク戦争を知ってたらこういうことは書かない、という記事をいくつか、英語圏(というか米国だが)のメジャーな媒体のサイトで読んだ(そしてその後、共和党のスポークスパーソンが「キューバ危機って何」的なおとぼけをぶちかまして失笑を買っていたのだが)。なんとなくそういうことを思い出させる顛末だ。

というわけで、アイルランド自由国成立後、北アイルランド紛争の時期のIRA(をはじめとするアイリッシュ・リパブリカニズム)について「分離独立運動」と捉える、という恥ずかしい不勉強を、いいかげんに何とかしてください>メインストリーム・メディア各位。文脈を踏まえることなく、「分離独立」という四字熟語でしか事態を捉えられないからそうなるんです。

それと、北アイルランドについて少しでも「語る」なら、毎年の風物詩くらい押さえておこうぜ。恥ずかしいから。ウィキペディア見ればわかるんだし。

7月12日から8月の第二土曜までは「パレードシーズン」で、この期間の「暴動」は「プロテスタントのパレード」に反対する「カトリック」のもので、組織者が誰かということは別にして(長くなるので)、参加者は若者。それは、毎年の風物詩で、今年たまたまロンドンが荒れたことは、まったく、関係ありません。

(まあ、個別には「もっとやれ」的なことは思ったり発言したりしているかもしれないが。)



アプレンティス・ボーイズのパレードのルート:
http://www.apprenticeboys.co.uk/features/relief_of_derry/route/morning_parade

まず、「市の中心部」では上記のルートを練り歩く。このあと、東南に下りて川を渡り、対岸のプロテスタントのエリアを練り歩く。

「火炎瓶」だの「車の乗っ取り」だのをしているのは、この朝のルートの北側の住宅街(以前は「スラム」、「カトリックのゲットー」だったところ)。

パレードの前日(金曜日)、パレードのルートのSociety Streetにあるアプレンティス・ボーイズの施設(メモリアル・ホール)が襲われている。

デリーの騒乱のBBC報道:

テレ朝のトンデモ報道と全然違うでしょ。

あとはUTVに記事があるが、そのほかは、「毎年のこと」すぎて&週末で(北アイルランドはプロテスタントは「日曜日は安息日ざます」主義)、あんまり報道されていないみたいだ。

実際、私もテレ朝のトンデモ報道さえなければスルーと決めていた(Twitterとブクマでは書いてる)。デリーということを考えると、また6月の東ベルファスト、7月の西ベルファストと比べて、たいした規模の「暴動」ではない。深刻度では東ベルファストのほうがよほどひどい(警察に対する発砲があった。これまで水面下にもぐっていた組織が関与している)。

※この記事は

2011年08月14日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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