「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2006年08月02日

【翻訳紹介】ベイルート、避難所になっている学校にて(Zeina blog, July 23, 2006)

レバノンのブロガーが主流メディアでも注目されているので(「ので」ってのも変だが)、私も例によっていくつか勝手に日本語化する。

まずは、July 2006 War on Lebanonというブログから。このブログはグループブログで、現在、7人が投稿メンバーとしてリストされている。

その1人、Zeinaさんは、名前から女性だと思うが、大学生か大学を卒業した人のようで、一時的な避難民収容施設となっているベイルートの学校で、子供たちのケアのボランティアをしているようだ。詳しいことは本人がこのブログに書いていないからわからない。以上は、ブログの記事から読み取れる範囲のことだ。

このZeinaさんの記事を、これからいくつか、勝手に日本語化していこうと思う。以下はJuly 2006 War on Lebanon blogの、Zeinaさんの最初のエントリである。7月23日付け。

なお、下記の日本語文は、オリジナルとは順番を変えた。最初のほうに置いた3つのパラグラフ(行頭に「■」をつけたもの)は、原文では最後に置かれている。これらは全体的な状況説明なので、それぞれの家族についての記述の前にあったほうが状況がわかりやすいのではないかと考えたためである。

文中に出てくるDahiyeについては、7月21日のデイリー・メイルが写真つきで報じている。(なぜか真っ先に見つかったのがデイリー・メイルなのだが、ほかにも報道はあるはずだ。でもBBCにはなかった。綴りが違うのかもしれない。)攻撃初日にイスラエルが爆撃した、ベイルートの南の郊外だ。団地とかあるらしいが、迷い犬の収容施設もある。(レバノンは宗教のモザイクなので、「イスラム教の国だから犬は嫌うんじゃないの?」という連想は無用。)

Sunday, July 23, 2006
the tenth day at the school
http://july2006waronlebanon.blogspot.com/2006/07/tenth-day-at-school.html

学校にいる人たちを何人か紹介します。おわかりになると思いますが、わたしは女の人と子供としか話をしていません。男の人たちはどうにも近づきがたくて。。。

■現在、すべての学校に家族の代表者(woufoud)がいて、それぞれの学校にいる親族を訪ねたり、亡くなった人へお悔やみのことば(lal ta aziye)を述べに行ったりしている。こんな現実離れしたものは、わたしはこれまで見たことがない。

■Dahiyeから来た家族もいて、そのなかには、Dahiyeの家に戻って身の回りのものを持ってきたり、シャワーを浴びてきたりしている人もいる。これがすべて終わったら、この人たちはDahiyeに戻れる可能性があるというのが、よいニュースだ。

■1つの教室に2〜3家族が滞在している。


Mrs. Sh:
6人の子供の母親で、うち4人がこの学校にいる。1人は今もまだDahiye(南の郊外)で働いていて、もう1人はヒズボラで戦っている。彼からは何日も連絡がなく、彼は家族がどこにいるのかも知らない。一番下の子は3歳で、Sという名前。この子はウサギを殺したことがある。首を絞めて殺したのだ。ハトの頭を潰すのも喜んでやっている。Sの兄で4歳のHは、あまりしゃべらず、15歳の兄のHuはハイパーアクティヴだ。わたしたちはできる限りのことをしたが、最終的にうまくいったのは、ミッキーマウスの雑誌を読ませておくことだった。

Imm H:
男の子4人と女の子1人の母親。女の子はAという。全員がこの学校にいる。Aは11歳で、年のわりにはあまりに大人だ。きょうだいたちの面倒は彼女がみている。何もほしがらないし、いつも、Dahiyeの家に戻ってシャワーを浴びるのを待っている。母親は部屋から出ない。Aがわたしを招いて、母親の部屋(実は教室)に入れてくれた。母親のImm Hは、まるで自宅に迎え入れるかのように、教室の入り口のところでわたしを迎えてくれた。彼女の部屋にはマットレスが5枚と、コーヒーテーブルが1脚と、小さなテレビが1台あり、彼女はずっとテレビを見ている。よそのお宅にお邪魔すればいつもこう、という感じで、ご結婚はしてらっしゃるのなどと訊かれ、こちらからはご出身はどちらで、などと尋ねた。そしてよそのお宅にお邪魔すればいつもそうであるように、「またおいでくださいね」といわれた。

Imm F:
9人の子の母親。何人かはこの学校に来ている。何人かはDahiye市内および近郊で働いている。7歳のFと4歳のZという幼い娘がいるが、ふたりともシラミがつかないようにと丸刈りにしてしまっている。Fはいつもボランティア・スタッフに抱きついたりキスをしたりしている。実際、誰にでも抱きついたりキスをしたりして、いつも注意を引こうとしているような感じだ。あとから聞いたのだが、この子はベイルートの完全寄宿制の学校に通っているのだが、たまたま親元にいたときに、避難をしなければならなくなったとのこと。

Imm H:
昨日到着した彼女は、9歳から17歳の4人の子の母親。Dahiyeにある家はまだ建っている。彼女は、家族のほかのメンバーとは明らかに外見が異なる。子供たちは2つの言語を話し、私立学校に通っている。16歳の娘は、ほかの同じ年頃の女の子たちとは違って、ベールをかぶっていない。彼女の夫は国外で仕事をしていて、家族への電話も1度あったきりだ。彼女はベイルートでフラット(アパート)を借りられる200ドルほどのお金を持ってはいるが、何かあったときのためにそのお金には手をつけずにいることにしたという。家族のパスポートも用意しているが、どこにいくか当てはないという。Imm Hはわたしに、16歳の娘と大学に行ったら何を専攻できるかについて話してやってくださいなと言う。家族は脇に座っていた。Dahiyeの家にシャワーを浴びに帰り、それから学校に戻ってきて眠った。

※この記事は

2006年08月02日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 10:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | lives in war/Lebanon | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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