kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2003年08月02日

トニー・ブレアの記録。

トニー・ブレアが労働党の首相として最長任期を記録。

http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/3110763.stm

これまでの最長記録はクレメント・アトリー(1945〜51)の6年と92日。


アトリーの場合,第2次大戦でのド保守ムード(チャーチル首相)の反動で選挙に勝ったという。在任中にはイングランド銀行や鉄道や港湾など産業基盤が国有化されたが,日本で最も知られるアトリーの功績は「ゆりかごからは墓場まで」の福祉制度だろう。

日本でさんざん語られてきた「老大国としての英国像」は,このアトリーが作った「ゆりかごから墓場まで」のシステムを有していた英国のことといってもよいような気がする。

それはもうない。

アトリーについて参考。私が↑でウソ書いてたら知らせてください。
http://www.geocities.jp/chartwelljp/bpms/attlee.htm

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■追記:

アトリーのシステムが,失業やら貧困やら無関心(アパシー)やらで機能しなくなったときに颯爽と現れてばりばりばりと改革したのが「鉄の女」サッチャー。こっちはこっちで「サッチャーの英国」というような視点の情報がいろいろとある。

しかし,多分「老大国」の視点の方がウケがよかった(本が売れた)んだろう(←推測),日本ではサッチャーを通り過ぎてメイジャーになった後でも「ゆとりある老大国」系の書籍が次々と出た。ビジネス分野では「サッチャーの英国」の書籍もあったが,気軽に読めるエッセイや滞在記の類は,「老大国」系統のものがものすごく多かった。これを思い返すと,「読者が読みたいようなものを作って売る」っていうことがよく見える。よくもあり,悪くもある。

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■追記2:

讀賣新聞さん:
http://www.yomiuri.co.jp/ 記事

ブレア政権、「第3の道」で英労働党史上最長を記録:
http://www.yomiuri.co.jp/main/news/20030802i213.htm

※この記事は

2003年08月02日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 17:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk/about blair | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼