kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2006年07月01日

ヴァチカン、ピウス11世の文書を開示。

Vatican opens inter-war archives
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/5134586.stm

ヴァチカンが、ピウス11世(在1922〜1939)の文書を、学者にだけ公開する。ただし、ナチズムとカトリック教会との関係について最も重要な意味を持つピウス12世(在1939〜1958)の文書は開示されない。(ピウス11世についても12世についても、英語版Wikipediaの記事も参照。)

Wikipediaによると、開示が始まるのは今年の9月18日から

また、第二次大戦直前のヴァチカンとドイツとの関係についての文書を公開することは、ヨハネ・パウロ2世が2003年に宣言していたことだった。前の法王(教皇)ヨハネ・パウロ2世が亡くなって、今の法王ベネディクト16世が選出されたときに、ユダヤ教のラビやユダヤ人の学者らは、ピウス12世の文書の開示を求めていた。

ベネディクト16世は今年5月にアウシュヴィッツ&ビルケナウを訪問している。ドイツ出身のカトリック教会トップが収容所を訪問したことは(しかもきついスケジュールの中、自ら望んで)、「歴史の闇」の解明への動きを期待させたが、ピウス12世の文書が開示されないことには、最も大きな「論争の的」となっている分野では、まだしばらくは論争が続くということだろう。

ともあれ、1922年から1939年2月という非常に重要な時期にカトリック教会のトップだったピウス11世の教皇の布告(Papal decree)、回勅(encyclical)とヴァチカンの外交文書のすべてが、今回開示されることになったのは、前向きなことなのだろう。

BBCは、APの報道を引いて、開示される文書には"Humani Generis Unitatas"(英訳すれば"The Unity of the Human Race"、つまり「人類の統一」)という回勅が含まれている、と報じている。これはドイツの人種差別主義と暴力的なナショナリズムを批判したもので、公にされる前にピウス11世が亡くなってしまったために、お蔵入りしていたものであるとのこと。

学者に限定した公開が今年の9月からなので、これらの資料に基づいた新たな報道が出るまでには、まだしばらくかかるだろう。

※この記事は

2006年07月01日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 09:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑多に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼