「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2006年07月07日

あれから1年――NEWS 23でのレポート

たった今、TBSの「NEWS 23」で「あれから1年」のレポートを見た。「追悼式典が行われました」だけでなかった。市長も警視総監もイスラム教徒の組織のおえらいさんも出てこなかった。

1年前のあのときに乗っていた列車(あるいはバス)が爆弾でやられ、以来、現場を訪れることができないという女性が、イングランド南部の訛りで、「なぜああいうことになったのか、もっと深く知りたい」と述べた。

取材記者は彼ら4人の出身地であるビーストンを訪れた。タンウィールの実家は、ドアをノックしても応答がない。モスクでもあっさりと取材を断られる。「イスラムだから」というテロップが出る。

それでも、彼らの友人や親戚がインタビュー取材に応じた。顔を出さないことを条件にした人もいたが、顔を出していた人もいた。みな、ウエストヨークシャー訛りでしゃべっていたと思う。

パレスチナやイラクで暴力のもとに置かれている人々を「わたしたち」と認識し、暴力を行使している側に怒りを抱く。そのこと自体は否定的に見るべきではないと思う。(ただし私は「怒り」というものに対しては、かなり慎重になる必要があると思うが。「怒り」がパワーを持つものであるからこそ、「怒りを広めましょう」とか言えねぇよとか思うことあるし。)

けれどもその「わたしたち」の意識は、彼らが「“わたしたち”に暴力を行使している側で生まれて育ち、暮らしている」ことで、「過激」なものとなる。「俺はこんなところでのうのうと何をしているんだ」という問題意識。

それが、例えばレイチェル・コリーとかトム・ハーンドールのような支援活動に向かわなかった理由を、私は深く知りたい。

いや、「深い理由」なんかないのかもね……「英国籍のアラブ人やイスラム教徒」がパレスチナやイラクに入ること自体が難しいだろうということは想像がつく。彼らは現地で「わたしたち」のために支援活動をすることも、おそらく、選択肢として考えることもできなかったんじゃないか。そうしようとしていたかどうかは情報がないからわからないけれども。

NEWS 23のレポートはそれから、「対話の重要性を知った人々」に重点を置いて進められていく。あと、「移民2世が先鋭化しやすい理由」も少し。(アイデンティティーを忘れない、ということ。)

ビーストンでの祭りの光景。アジア系の人たちがきれいな衣装で踊って、白人やシーク教徒(だと思う)が拍手している。あと、住民と警察の「対話」。

「対話」において警察は、「住民からのポジティブな評価が、もっと聞かれる必要があるのです」みたいなことを言っていた。

つか、ポジティブな評価なんて、そうそう聞かれないぜ。うちらの仕事(印刷物関係)でさ、誤植ゼロとか用語統一100%とかでも誉められたりしないじゃん。そういうのは「やってて当たり前」のことだから、「この本は誤植がゼロである」とか「誤植がほとんどない」とかって、誉めないじゃん。

誤認捜査の上に誤射しといて、「ポジティブな評価が聞かれる必要がある」とか、よく言うよね。何が警察への信頼をなくさせているのか、真正面から考えるべきだよね。

椅子だかテーブルだかの足をライフルと誤認して射殺(ロンドン東部、1990年代終わり:射殺されたのはアイルランド訛りの男性)、というものすごく不幸な事件のあと、ロンドン警視庁はどう対応したんだろう。これは調べてみないとわからない。(でもどこを調べればいいんだか。。。)

最後。あの日に大怪我を負ったブルーネル大学(だったと思う)の教授が、自分を怪我させたモハメド・シディク・カーンに宛てた手紙を書いている。教授の背後の書棚に、アントニー・バージェスの本。『時計仕掛けのオレンジ』ではなかったけれど、アンソロジーか評伝か何か。

あの事件を、a lesson to learn fromと位置付けて、将来においてあのようなことが起こらないようにしなければならない、という英国での受け止め方は、事件をan evil act of terrorと位置付けて、将来においてあのようなことが起こらないように相手を武力で叩き潰しておかねばならない、という米国での受け止め方とは、やはり違う。

2005/07/07は、4人の実行犯が「ウエストヨークシャー訛りの英国人」であったこともあって、英国にとって「外部からもたらされた脅威」ではなく、「私たちの問題」として受け止められている。政府はそれを否定したくてたまらないらしいが(「イラク戦争とロンドンのテロとは無関係」とか言ってるし)、政府の言うことと人々の考えとはまったく一致してない。

彼ら4人にとっての「わたしたち」が、ロンドンの通勤列車の人々にとっての「わたしたち」を爆弾でぶっ飛ばすまでにずれてしまったのは、ほんと、なぜなんだろう。

なお、NEWS 23の取材は、6日にアルジャジーラで流されたタンウィールのビデオ(アルカーイダが手を加えたあとのもの)が公になっていない段階で行われたもので、彼ら4人とアルカーイダとの関係は「ない」という結論を、ある程度、前提としていた。この点については、今後出てくる情報に気をつけておく必要がある(のだけど、根本的にこれ、「情報戦」だからね、どっちの側からも仕掛けあってるような状態で、何が事実なのかすらわかんないから。)

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英国は、「侵略者」であった過去と向き合ってるといえるかどうかは正直わかんないけど、「侵略者であった」ことを否定する人は、侵略「された」結果、今は「英国人」になっている人々にはもちろん、侵略「した」立場にあった人々に直接つながる人々の間にも、ほとんどいないと思う。(「アイルランド問題? 英国が侵略して植民地支配したことが根本だよね」みたいな。その上で、例えばIRAについてどう考えるか、ってのはあるが。)そのことが、「我々は善、悪は外部から」の思考が流行しないことに、多少はかかわっていると私は思う。

※この記事は

2006年07月07日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk/07 july 2005 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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