「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2006年07月14日

サッカーとミサイルと「暴言」と「平気」と

ティーンエイジャーの男の子たちが公園でサッカーをしていたらミサイルを撃ち込まれた。5人が殺され、7人が負傷。

停電しているガザで、子どもたちはサッカーに楽しみを見いだしていた。そこを襲った突然のミサイル(…中略…)。5人の殺された子どもたちの遺体は損傷が激しく、識別ができない状態にあるという。
――「サッカーをしていた少年たち5人も殺された」、P-navi info, 2006. 07. 14


「某国がうちの国にミサイルを撃ってきた」わけじゃない。だから「うちの国」ではメディアも騒然としない。

パレスチナ、ガザ地区のKfar Daromという場所に、ちょっと前まで、イスラエルが法を無視して建設した「入植地」があった。入植者たちが、でかく報じられたような形で、そこを出ていった(出ていかされた)あとは、アラブの男の子たちがそこで遊んでいた。

ボールを蹴りながら彼らの頭にあったのはどのプレイヤーだろう。クローゼか? アンリか? ひょっとして頭突きごっことかしてたか?(停電してるからテレビはないかもしれないが、何らかの印刷物で見るくらいのことはあったかもしれない。)

彼らが蹴っていたのがポールのふりをした迫撃砲弾だったとでもいうのだろうか。キャプテン翼もびっくりのスーパープレイで、それをイスラエルに蹴りこむとでも解釈したのだろうか。

彼らがハマスの幹部をかくまっていたとでもいうのだろうか。

ハマスの幹部を暗殺するため、大型爆弾を居住地に落とし、関係ない一家を殺し、多くを負傷させ、家を失わせるということを今、イスラエル軍は平気で行っている。
――「ガザ一家9人虐殺 どんどん増える死傷者数」、P-navi info, 2006. 07. 13


「平気で」という言葉は、この文章を書かれた方の感情を表す文言であるけれども、この「平気で」はとても的確な一言だ。

「平気で」というのは、この場合、やっといて、何ら悪いことだと思ってないということだ。

「大型爆弾を居住地に落と」すことは、明確に、国際法に違反している。

でもやっちゃうんだな。それも1度ならず2度も3度も、いや、何度も。それは「平気で」と呼ぶにあたいすることだ。

そうしているうちに、その行為は「当たり前のもの」「ありふれたもの」になっていく。「またか」になる。

ジダーンの頭突きの原因となった“その言葉”を、2度、3度と繰り返したマテラッツィは、「何十回と耳にするような類の暴言で、そんなのはそこらじゅうを飛び交っている(just slips out of the ground)」と述べ、また、FIFAが調査のために両プレイヤーを20日に召還すると決定したあとでマテラッツィのエージェントは、「ピッチのプレイヤーが口にし続けたことでそのプレイヤーを何とかするという話になると、この先、とんでもなく忙しくなるだろう。なぜならプレイヤーが互いに怒鳴りあうことはごく普通のことだからだ。特にストレスのたまる試合の場合は当たり前のことだ」と述べた

あの「暴言」を口にしたとき、マテラッツィはジダーンにからかわれて(小馬鹿にされて)ちょっとムカっときていて、そしてつい、口走ってしまったのだろう。

彼が「平気で」いるのかどうかわからない。翻訳という作業を経てからメディアを通じて伝わってくる彼の言葉は、彼からメディアに伝わる前にすでに抑制されている。当初はたしか、詰め掛けた取材陣の前を、ヘッドフォンしてさーっと通り過ぎたというが、エージェントからこの件についての発言を控えるよう指示があったのだという記述を読んだ(ソース失念)。つまり、ほんとうの心のうちは、メディアの記事を読んだってわからない。

けれど、「はずみとはいえ、ひどいこと言っちゃったなあ」くらいは思っててほしい。マルコ・マテラッツィっていうひとりの人がそう思っててほしい、というのは、私の希望だ。

「よくあること」「当たり前」なんて弁解は、FIFAの調査(20日)に答えるための弁論術(自己弁護)だけにしておけ、少なくとも自分自身という人間のために。

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イラクで、事態にまったく関係のない民間人を射殺した米兵が「すまなかった(Sorry)」とわびる、という報を、私はこの3年以上の間に、たびたび見てきた。

自分(あるいは自分の部下)が撃ち殺した人を前に、その人の家族・友人に対してそう言うとき、言う側も言われる側も、どれほど傷ついていることだろう。米兵がSorryと言うたびに、米兵にSorryと言われるたびに、その人間の一部は死ぬだろう。

casualitiesとしてカウントはされないけれど、こういうのも、「犠牲」に入ると思う。戦場では、たくさんの人たちが常に、自分の一部が死んでいくのを見ている。

しかしアメリカは、「自軍の犠牲」という問題に対して、ロボットにやらせればおっけーじゃん、という結論を導き出した。(なお、ロボットによる戦闘の実現には、高度な技術を有するイスラエルももちろん関わっている。)

こうやって、何もかもが「当たり前」で「平気」になっていくんだという絶望。

人間は何らかの希望がないとダメだ。でも人間にはその希望を殺すこともできる。

希望を殺さないために。

「Stop killing!」の一言でも、イスラエル政府に。
送り先:
http://palestine-heiwa.org/misc/kougi.html

ハンマーが振り下ろされる
世界中いたるところで
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爆弾が落っこちる時 何も言わないってことは
爆弾が落っこちる時 全てを受け入れることだ
――The Blue Hearts



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転記前URL:
http://ch.kitaguni.tv/u/917/i_dont_think_i_am_a_pacifist/words_at_war/0000373315.html

トラバ:
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ユダヤ人は「聖書の民」じゃなかったのか? 少なくとも現代イスラエルの為政者はそうじゃないみたいだ。「目には目を,歯には歯を」an eye for an eye ...
2006 年 07 月 15 日 00:08:02

※この記事は

2006年07月14日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 11:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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