「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

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2003年07月26日

「砂糖がはいっているのである」

「傘蛇(コブラ)」
「『正当だ。おれのしたことは正当だ』」
「なんだかドイツらしくないという気がした。」
「『いかに速く動くよ、六月の雨は、寄せ集められて、最上川に』」
「イデオロギーに砂糖がはいっているのである。」
―― 寺田寅彦、『柿の種』

青空文庫さんの25日の新着。
寺田寅彦という人の文章には、大学受験前だと思うが,誰が書いたのかをろくすっぽ考えもしないもの(つまりは「現代文の読解問題」だが)としてよく接していたのだろう。あるいは国語(現代文)の教科書に載っていたのかもしれない。ともかく、青空文庫さんを見ると、「あ、これ、知ってる」という文章をぽこぽこと発見する。

「空欄に適切な接続詞を補え」とか「筆者の言いたいことを50字以内でまとめよ」とかいった“訓練”をしなくてもよい立場で読むと、私にとっては素直におもしろい。それとも面白がれる立場・年齢になったということか?

『柿の種』というのは、仲間が主宰していた俳句雑誌の連載だそうだ。私は今回初めて知った文章群だが、いや面白い。この人は飄々として観察している。

大正9年から昭和10年の連載が1ファイルにまとめられているので、大変に長く、まだ全部は読めていない。


ロンドンの動物園へインドから一匹の傘蛇(コブラ)が届いた。


大正9年10月。コブラは「傘蛇」。ナルホド。


行きがけには、だれも彼も
「正当だ。おれのしたことは正当だ」
とつぶやきながら出かけて行く。


大正10年2月。ここ数日「海外ニュース」でよく聞く台詞。



なんだかドイツらしくないという気がした。


大正10年5月。そのころにはもう「ドイツらしい・らしくない」で伝わるものがあったということだ。では、「日本らしい・らしくない」はどうなのだろう?そのころと、現在と。


「いかに速く動くよ、六月の雨は、寄せ集められて、最上川に」


昭和3年3月。英訳した芭蕉のあの俳句を和訳した結果。そうか、やはり英語の語感はこうなのか、と勝手に納得。東京に遊びにきた英国の人に「俳句でお勧めの本はどれか」と問われ、書店でどれを見てもピンと来なかったのも当然、とますます勝手に納得。情景描写のものはのどかになり過ぎると思えたのだ。私はネイティヴ英語スピーカーではないので、英語としてほんとに「のどか」なのかはわからないが。第一、「五月雨をあつめて速し」がどういうことなのか、きっと私には正確なところはわかっていない。


 いわゆるナッパ服を着て、頭を光らせ、もみ上げを剃(そ)り上げた、眼の鋭い若者が二人来て隣に腰かけた。
 それがニチャニチャと止(やす)みなしにチューインガムを噛んでいる。
 アメリカ式チューインガムを尊崇することと、ロシア式イデオロギーを噛んで喜ぶこととは、全く縁のないことでもないかと思われた。
 それから三、四列前の腰掛けに、中年のインテリ奥様とでも言われそうなのが二人、それはまた二人おそろいでキャラメルらしいもの――噛み方でわかる――を噛んでいるのが、ちょっとおもしろい対照をなしていた。
 イデオロギーに砂糖がはいっているのである。


昭和6年9月。年表を見ると昭和6年=1931年,9月18日には満州事変が始まっている。翌年には五・一五事件が起こり、日本は国際連盟の脱退を通告する。

そして平成15年=2003年、私には「いわゆるナッパ服」もわからないし、「頭を光らせ、もみ上げを剃り上げた、眼の鋭い若者」がどのような人々の描写なのかもわからない。その後の「ロシア式イデオロギー」で推測するばかりである。

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猫も犬も小鳥も人も木も稲も粟も出てくる『柿の種』、紙で読むのがよいように思う。ページに印をつけるのだ。ISBNは4003103777。岩波文庫。→ amazon.co.jp

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■追記:
昭和6年1月の項、夏目漱石にもらったという「あちらの画廊の有名な絵」はこれ。「サー・ジョシュア・レーノルズの童女や天使」はnational galleryのサイトには見当たらないけれど、多分とても有名なものではと推測。

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転記前URL:
http://ch.kitaguni.tv/u/917/%c6%fc%cb%dc%b8%ec/0000009681.html

コメント:
ページにしるし…
異論があります。e-textを散歩するときの杖にエディタをつかふものとして、にひ。縱に讀めるしかきぬきできるしもちろん枝折をつけることもできる。ただ。寢轉んで讀むのには紙の本がうへ。ね、くだらないこと、かきこして、ごめんね、つひ、したくなるの、ここはそんな場處のひとつ、です。
投稿者:
tsuwe
at 2003 年 07 月 26 日 17:41:13

週末は留守にしていたので返信遅れました。

同じ『柿の種』に,「不審紙」というのが出てきます。それもまた,飄々とした寅彦節ですが,昭和初期の細かいことがわかるという意味でもおもしろいのです。

私の場合,パソコンの画面を見るという行為は「文字列を追う」という感覚に近く,「文章を読む」にはやはり紙の方が落ち着くのです。必要な情報を得るという意味ではパソコンでも紙でもどちらでもよいのですが(むしろパソコンの比重が増えつつある)。
投稿者:
nofrills
at 2003 年 07 月 28 日 21:54:35

本…
鴎外も漱石も勉強のしかたがなにかよく似てゐたみたい。寅彦の十歳か十一歳の頃かな、春秋ノコトとかいふ自傳をかいてゐて、びッくりしたことがあります。冩眞でみたいとおもふほどでした。本を讀むことへのこだはりは不審紙の僞物のおはなしにみえますね。でも、寅彦はやはりお金持であッたといふ印象も殘る。不審紙は寅彦、別のところでも書いてゐたと思ふけれど鴎外だッたかもしれない。あの時代、姿勢をただして音讀するといふお勉強にあこがれるけれどきッと今の本の讀みかたから得られるものとはちがふだらう、そんなふうにふはふはおもひはじめて。五歳や六歳で漢文を素讀する時代のはるかさにためゐきしてティシュをガムのやうに噛みあじけないおもひをしました。紙の本のにほひはときをりとてもいやですけれど。あんまり長いおはなしになッたので以下は端折ります。コメントにかきこするためのちひさなまどに一時間ほどしがみついてゐました。本は紙にも畫面にも棲んでゐない。さうおもふんです。どこにゐるのかはッきりしないけれど。紙の本からあらはれるし畫面からみえるけれどあたまンなかにもゐるから困る。そんなふうなことをふはふは蜿蜒とかいてしまひました。三時間はかけてもをはらないどころか更にふくらみさうにおもへたりしてこはい。紙に鉛筆ではさうはゆかないでせうけれど。むかしのひとは墨を水でごしごししてかいた。このちがひはとてもおほきすぎてあたまがくらくらします。ねむくなッたのでまた〜。お時間とッてごめんなさい。
投稿者:
tsuwe
at 2003 年 07 月 29 日 01:41:52

昔と今とで決定的に違っていることはいろいろあるのだけれど……道具ももちろん違うし,環境も違う。「漢文の素養」とか「勉強することができる身分」とかも違う。それでもそういう違いを超えるものがある。だからというわけでもないんですが,せめて青空文庫さんなどで昔の人のおこぼれをいただくことにしようかと。今読むと全然理解のできないものもありますが。(文体とか語彙といったレベルではなく,本当にわからないものがある。)なお,高校の時,漢文は苦手でした。
投稿者:
nofrills
at 2003 年 07 月 30 日 01:44:39

漢文…
いいな〜。朝の漢詩紀行、ときどきみます。パソがなければ漢字かけないのに。
投稿者:
tsuwe
at 2003 年 07 月 30 日 19:21:54

※この記事は

2003年07月26日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 13:58 | 日本語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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