kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2003年07月21日

日本にいたのだよ,この人は。

箱根で談笑してる光景はニュースで見たが,会談内容もあまり報道されてないような気がする

米国議会で「歴史が証明してくれる,我々が正しかったことを」と,カルトの教祖みたいな顔をしてチャーチル信奉者らしい演説をぶって拍手喝采を浴びて,そして東アジアへ向かう途上,ドクター・ケリーの死がこの人に知らされた。
東アジア・ツアーは日本から始まり,箱根で例の笑顔で談笑してたりもしたが,記者会見ではイギリスの記者(だと思う。アクセントから判断して)にドクター・ケリーのことで突っ込まれると,あからさまに怒った表情でこわばった。

キャンベル報道官は今回首相と同行していないそうで(英語記事で知った),となれば,首相自身の口から見解を語ることはできないということなのだろうか。そりゃないぜバンビちゃん。(7月で退任するスミス報道官は同行していたそうだが,日本に着く前の機内での会見は,記事を読む限り,まるでサッカーの試合でロスタイムに入った時に2−1でリードしているチームのプレイヤーが緩慢な動きでスローインに向うかのように,時間ぎりぎり作戦で臨んだようである。)(<比喩は思いつき。)

すでに韓国で首脳会談を行ったそうで,やはり日本では「北朝鮮問題について韓国と英国の両首脳は合意」云々と,あたかもそれしか関心事がないかのような扱いだが(私の見てる範囲が狭すぎるのかもしれないが),冗談じゃない。英国政府は大仰な証拠をでっちあげてイラクの人々をたくさん殺した。それは「脅威に対する先制攻撃」として誰かが支持してくれるかもしれないが,今回は英国の国防省の人間が,政府の大仰な証拠についてジャーナリストに語ったことが原因で,鎮痛剤を服用して手首を切って死んだのだ。死体がドクター・ケリーであることがわかったときに,そして自殺であったことがわかったときに,英国首相は何を思い,トニー・ブレアは何を思ったのか。

東京を発つ時に撮影されたというMirrorのこの記事の写真で,トニー・ブレアは米国議会でのあの狂信者のような表情とはまったく違う表情をしている。

ただしこの表情が何を思ってのものか,ほんとのところは多分写真を撮った人にも,もちろん記事を書いた人にもわからない。「ドクター・ケリーが死んでしまったのは私の責任だ」と思っているのかもしれないし,「英国に帰ったらクックとかからフクロにされる」と思っているのかもしれないし,「東京の蒸し暑さは耐えがたい」かもしれない。「キドニーパイでも食べないと元気出ないんだよね」かもしれない。本人にしかわからない。

※この記事は

2003年07月21日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 02:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk/about blair | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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