「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2003年07月20日

科学者の自死。

死体で発見された英国防省の兵器専門家は手首を切っていたとのこと。

昨日ちょっと出かけて,帰りの電車の中で向いの座席に座っていた人が読んでいた新聞(一般紙の夕刊)が視界に入ったのだが,その人が新聞をめくってタテに2つ折りにした時に,「英科学者死亡」の記事が私の方に向けられた。んで今日図書館に行って昨日の夕刊を読もうと思ったら,他の人が読んでたようでラックになくて。新聞が空くまでと思って他のことをしていたら閉館になってしまって。

図書館のことを書きたいわけではないので閑話休題。

今日になってYahoo! JAPANのニュースを見てみたら,「手首切る」との報道が。
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/uk/

とりあえず仕事のメールだけ済ませたので,さっきBBCとObserverだけは一応見た。

BBCはギリガン記者に情報をもたらしたのが,亡くなったドクター・ケリーだと認めた。(「主要な情報源」=「情報源のひとり」と。→ http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/3081027.stm

↓は読んだ記事から。
http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/3080795.stm
政治のゲームに巻き込まれるべき人ではなかった。

http://observer.guardian.co.uk/focus/story/0,6903,1001786,00.html
誇りを持って国防省で働いていた科学者(国防省にスカウトされなかったら,微生物学の研究者として学問の世界にいた人だろう)とジャーナリストが会って話をした結果が,こんなことになるとは。キャンベル報道官はなぜ「情報源」(45分説を否定した国防省の内部の人間)を特定したがったのか。なぜドクター・ケリーが証人として委員会の前に立った時,国防省は支援しなかったのか(ドクター・ケリーはひとりで反戦議員の質問に答えた)。ドクター・ケリーが死に向かって歩いていた道の描写から想起されるのは,merry Englandそのものである。午後3時〜4時,晴れていたらどんなに美しいだろう。

この科学者が死ぬようなこと,それも自死という形を選ぶようなことになってしまった……私の薄い脳みそでは,日本で何度かあった「秘書がやったことです」→秘書首吊り死体で発見,という系統の話が思い出されてしまう。

頭の中身が薄すぎてちゃぷちゃぷいってるようなので,スーパーで50円で買ってきた頭によいキノコを食べてみましたが……明日あたり効果が出るのかなー?
# 成分・効果を調べてから買ったわけではなく,たまたま前に食べておいしかった不思議なキノコが50円だったので買ってきただけです。家でパッケージを見たら「頭の活性化」とか書いてあったので,ググってみたら,かなりすごかったわけです。

あーなんかいっぺんにいろいろ考えたので疲れてるみたいです。

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追記(22日)
ドクター・ケリーの死については,★阿修羅♪さんの「戦争37」に各紙記事など情報が集積されています。

※この記事は

2003年07月20日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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