「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2011年07月04日

メモ:ドラムクリー紛争

【2014年6月29日追記】本稿は加筆・修正してthe Northern Ireland Troubles FAQのブログに転記した。なお、本稿で剽窃(コピペ泥棒)避けのために断わりもなく意図的に混入してあるくだらない誤記については、転記先では修正してあるかもしれない。してないかもしれない。

▼以下、2011年7月4日投稿時のまま:

雰囲気的に、今年は荒れそうなので、メモとしてまとめておくことにする。

前提としては(特に1990年代)のドラムクリー紛争。
http://en.wikipedia.org/wiki/Drumcree_conflict
http://cain.ulst.ac.uk/issues/parade/develop.htm

北アイルランド、カウンティ・アーマーにポータダウンという町がある。町としては17世紀にはすでに存在していたが、19世紀に鉄道が敷設されてから開け、リネン工場などで賑わったようだ。周囲の町とあわせて人口は22,000人くらい(2001年センサス)。住民はずっとプロテスタントが多数を占めてきたが、1960年代終わりに「北アイルランド紛争」の局面に入るとカトリックとプロテスタントの居住エリアが完全に分かれた。(ウィキペディアの「ポータダウン」の項より。)

この小さな町が7月になるとニュースになるのは、オレンジ・オーダーのパレードが行われるからだ。

1790年代、宗派を問題とするのではなく、アイルランドのブリテンからの独立を目指したナショナリストの運動、「ユナイテッド・アイリッシュメン」(ウルフ・トーンの)の時代、彼らとは逆に「カトリックに対するプロテスタントの優位」を信条とするプロテスタント(アングリカン、およびその他の宗派)の人々がいた。彼らの活動域がカウンティ・アーマーの北部で、ここでは「プロテスタント対カトリック」の構図での紛争がみられた(双方が「自警団」を結成し活動していた)。そのプロテスタントの集団が前身となって、1796年に発足したのがオレンジ・オーダーである。(ウィキペディアの「オレンジ・オーダー」の項より。)

オレンジ・オーダーの結成の地は、ポータダウンの西に少し行ったところにあるラフゴール(Loughgall)という場所だ。(紛争でいうと、警察襲撃しにいったIRAのユニットがSASに待ち伏せされて皆殺しになった場所。)


大きな地図で見る

1796年7月12日、彼らオレンジ・オーダーの最初の行進(パレード)が、ポータダウン、ラーガン、ウォーリングスタウンを結ぶルートで行われた(上の地図でそのまま真東の方へ目を屋やると地名が見つかる)。「プロテスタント」のウィリアム3世(オレンジ公ウィリアム)が「カトリック」のジェイムズ2世を破った「ボイン川の戦い」(1690年、当時の暦で7月1日、現代の暦では11日)を記念するものだった。

この時期、ユナイテッド・アイリッシュメン(しつこいようだが、中心となった人々はプロテスタントが多かった)のナショナリスト運動が勢いを増しており、当時アイルランドを支配下に置いていた英国(ブリテン)は彼らの勢いをそぐため、「セクタリアン(宗派)」というカードを切った……このへんのことをウィキペディアで読んでみると、「歴史は繰り返す」感に襲われて身動きが取れなくなるほどだ。

ともあれ、要するにポータダウンという町はオレンジ・オーダーにとって「発祥の地」という意味を有する、というのがポイント。

さて、このポータダウンの町の中心から北に少し行ったところに、「ドラムクリー Drumcree」という地名がある。ここが毎年7月の北アイルランドのホットスポット中のホットスポットとなる。

ドラムクリーには教会がある。中世から続く教会で、宗教改革の時代にチャーチ・オヴ・アイルランドの教会となった。

チャーチ・オヴ・アイルランドはチャーチ・オヴ・イングランド(イングランド国教会)、つまりアングリカンで、イングランドの国家元首をトップとする。なお、間違いやすいが、スコットランド国教会は宗派が違う(プレスビテリアン、つまり長老派)。また、「アルスター」で勢力が強いのはアングリカンよりむしろ、プレスビテリアンやメソジストといった、非国教会のプロテスタントの宗派である。英国の支配下にあった時代は、アイルランド全体ではアングリカンが国教とされていたので強かった。「アングロ・アイリッシュ」と呼ばれる人々(イエイツとかベケットとか)の宗派がチャーチ・オヴ・アイルランドである。

チャーチ・オヴ・アイルランドは、1869年の教会法(1871年発効)でアイルランドの国教ではなくなり、このときにドラムクリーの教会もその地所の多くを失った……といったこともウィキペディアには書かれているのだが、その書かれていることの意味を把握できるほどの知識は、残念ながら私にはない。この辺、もっと勉強せんといかん。

ともあれ、ドラムクリー・チャーチは、いかにも「アイルランドらしい」田園風景のなかにたたずむ、小さくて質素な教会である。下記、Google Street Viewでもう少し(7クリック分)道なりに進んでいくと、左手に牛ちゃんが放牧されていたりするんだが、その風景とかたまらないものがある。しかも撮影された日の天候が、すばらしくよい。


大きな地図で見る

こんなのを見ていると長閑な気分になるのだが、ここは激しい対立の場となるのが常で、今年はおそらくいつも以上に緊迫するだろう、という雰囲気だ。

なぜここが対立の場となるか。上述した「オレンジ・オーダーのパレード」は、今なお「プロテスタントの伝統」として行われている。元々が「プロテスタントがカトリックを打ち負かしたことをお祝いする行事」であり、また主催者が「プロテスタントのカトリックに対する優越性」を信じる人々であり、つまりそのパレードは本質的にセクタリアンなものである。

だからこそ毎年7月を中心とするプロテスタントのパレードの季節 (marching season) は、北アイルランドのあちこちでいろいろと緊迫するし、にらみ合いは発生するし、「暴動 riots」と呼ばれる事態にもなる。

ドラムクリーがほかにも増して緊迫するのは、パレードのルートのせいである。

教会は小高い丘にたっているが、教会の前の道をそのまま、道なりに降りてくると、やがて大き目の道路に突き当たる。この道路が、Garvaghy Road(ガルヴァーヒー・ロード、という感じの音)というのだが、この一角はポータダウンというこの町でナショナリスト・カトリックしか住んでいないエリアである。

上述したように、ポータダウンは元々プロテスタントが多い町だったが、それでもかつては住宅街ではある程度、「プロテスタントの家の隣はカトリックの家」という感じになっていた。しかし「紛争」でカトリックとプロテスタントが完全に分かれて住むようになった。Garvaghy Roadはそうして、「カトリックだけの住宅街」となった。けれども「紛争」よりずっと前から行われていたプロテスタントのパレードのルートは、その「カトリックのエリア」を通過する。下記ウィキペディアの地図が見やすいのだが、BがこのGarvaghy Roadで、それと並行するAのObin Streetにかけての一帯が「カトリックのエリア」だ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Drumcree_conflict#Map

ぶんすかぶんすかぴーひゃらぴーと鼓笛隊を伴ったパレードが粛々と通過するだけではなく、17世紀のことを引っ張りだしてきて「プロテスタントはカトリックに勝ちました」、「プロテスタント>>>カトリック」的なメッセージを発するのが目的なので、通過されるカトリックの人々にはおもしろくないどころか、「挑発」とうつる。

それでも、ウィキペディアに詳しく書かれているのだが、80年代にタウンセンターの方(Obin Street)でいろいろあったあとは10年ほどはわりと平穏だった。

その「わりと平穏」だったころ、1990年に撮影された映像。定点カメラで淡々と、パレードが行き過ぎるのを撮影している。先頭から末尾まで、二列のパレードが通過するのにかかる時間は5分半くらい。
http://www.youtube.com/watch?v=LPYYn5w8T1s

パレードに参加しているのは、肩にオレンジのサッシュをかけた男性たちで、女性は、鼓笛隊の中にいる小学生か中学生くらいの子だけだ。(オレンジ・オーダーは徹底して「男尊女卑」で、「女は表に出なくて良い」という思想である。)この鼓笛隊が「アルスターのプロテスタント」の象徴で、スコットランドのレンジャーズFCにいたときのポール・ガスコインがピッチで「フルートを吹くまね」をし、セルティック(の観客席)を挑発して問題になったことがある。

なお、男性たちのサッシュは、The Sash My Father Woreという曲に歌われている通り、プロテスタントのカトリックに対する勝利を記念し、父親から息子へと代々受け継がれるものだ。(この曲については非常に興味深い話があるのだが、それはまた改めて。)
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Sash
It is old but it is beautiful, and its colours they are fine
It was worn at Derry, Aughrim, Enniskillen and the Boyne.
My father wore it as a youth in bygone days of yore,
And on the Twelfth I love to wear the sash my father wore.


ともあれ、この1990年の映像を見ると、警察の警護もほとんどなければ、パレードが過ぎた1メートル後には、パレードに参加していない人たちが道路を横断しているという状況で、おそらくポータダウンの中心部(「カトリックのエリア」とは離れている)で撮影されたものなのだろうけれども、私などがニュースで見慣れた「ドラムクリー」とはかけ離れているので逆にびっくりする。

「ドラムクリー」が騒がしくなったのは、1995年以降だ。この前年、1994年にIRAは停戦を宣言、続いてロイヤリスト各組織も停戦を宣言し、英メイジャー政権下、政治の局面では「交渉」が行われ、非常に緊張した状況にあった。

上述した、パレードの通過する「カトリックのエリア」では、「わざわざカトリックのエリアを通らんでもいいだろう」ということで、ルート変更を求める地域住民たちが、Garvaghy Road Residents Coalition (GRRC) として結束した。これが普通に「不満を抱いた地域住民」ならば、ひょっとしたら事態はここまで混迷しなかったかもしれない。だが、実際には、GRRCのスポークスマンとなったブライアン・マッケンナはIRAの爆弾攻撃で有罪となったリパブリカンだった。「ドラムクリー」について、プロテスタント、というかロイヤリスト側の言いたい放題の場(YouTubeのコメント欄など)で「地域住民っていうかIRAでしょ」という発言がなされていることがよくあるが、それはこのことを指す。

余談だが、ブライアン・マッケンナは現在、シン・フェイン主流派を離れ、Eirigiのスポークスマンをしている。

GRRCは行政に対し、パレードのルート変更を求めるなどしたが奏効せず、1995年7月のパレードに際し、道路に座り込むという方法で抗議を行った。ウィキペディアに詳しいが、オレンジ・オーダーのパレードは当局の許可を得ており、一方で住民の座り込みは無許可だったにも関わらず、警察は衝突を避けるため、オレンジ・パレードがGarvaghy Roadに入らないようにブロックした。

オレンジ・オーダーが「じゃあ」っていってぐるっと迂回……するような人たちなら、こじれはしない。(なお、丘の上にあがって向こう側を降り、プロテスタントのエリアを通って、ポータダウン市街に来ることは可能である。)何しろこれは「伝統」、「古いけど美しいお父さんのサッシュ」の行事なのだ。変えることなど考えられない。しかも「カトリックの圧力に屈する」など!

というわけで、オレンジ・オーダーの人々は教会に立てこもった。

その間、カトリックの住民団体GRRCと地域の政治家、警察、民間グループ(Mediation Network)による交渉が行われたが、オレンジ・オーダーはGRRCとの交渉は拒否した。

これは当時、DUPがシン・フェインとの交渉を全面的に拒否していたのとパラレルである。

しかしDUPとシン・フェインの今の様子(こないだなんて全米オープン覇者にコーチしてもらいながら一緒にゴルフしてたし)から考えると「隔世の感」としか言いようがないが、当時は……というかつい最近までは、「DUPを翻意させようとしても無駄」と考えられていたのだ。それを翻意させたのが何だったのかは、まだ十分には語られていない。(当方ワクテカで待っているのだが。)

閑話休題。1995年7月のドラムクリー。教会に居座ったオレンジ・オーダーの人々(最大で1万人)は、1000人規模の警官隊と対峙することになった。オーダー側から警官側にはもの(石、瓶など。火炎瓶があったかどうかまでは調べてない)が投げられ、警官側はプラスチック弾(いわゆる「ゴム弾」と同様のもの)を24発発砲して応じた。また、北アイルランド全域で、ドラムクリーのオレンジマンを支援する動きが見られ、道路の封鎖、ラーン港の封鎖など、かつての「プロテスタントのストライキ」ですかという状況になった。

そしてにらみ合いが始まった翌日、7月10日の夕方、DUPのイアン・ペイズリーと、UUPのデイヴィッド・トリンブル(←この人、グッドフライデー合意のせいで「穏健派」とか言われてるけど、実際にはUUPの中の最強硬派なのでお間違いなく)がドラムクリー教会で集会を開いた。このときのペイズリーのアジ演説がYouTubeで見られる(ちゃんと見てないけど)(をい)
http://www.youtube.com/watch?v=LxEjzSlbHvY

こうして人々を煽っておいて、彼らは警察のバリケードの突破を試みた。このときは警察に押し返されたが、相当のもみ合いになった。

「北アイルランド紛争」が「IRAと英軍&プロテスタント武装組織」のものと思い込んでると、こういうのの意味はわからない。私もその「わからない」ところから調べることを始めたのだが。

そして7月11日、ようやく落としどころが見つかって合意。いわく、オレンジ・パレードの側は、音を立てずに、鼓笛隊を連れずに行くという条件で、カトリックの住宅街を通ってよい。そして座り込みをしていたカトリックの人々は道路を開け、いよいよパレードが到着、そのとき!

DUP党首、UUP党首そろって「勝利のポーズ」。

お前ら小学生か、みたいな。

続く1996年(2月にIRAが停戦を破ったあと)も、パレードがここを通る、通らないでもめにもめた。警察は当初、パレードの側に通行を禁止していたのに、その方針を180度覆した。これでカトリックの人々が怒って、ラーガンとかベルファストとかデリーとか、カトリックの強いところそこらじゅうで暴動。これに応じて警察が「暴徒鎮圧」、ただしカトリックに対してはプロテスタントに対するのとはまったく慎重さの度合いが違い、数千発のプラスチック弾を発砲。(なお、北アイルランドではプラスチック弾での死者が非常に多く出ており、その使用は長く問題視されてきた。)これでよけいに、「警察は信頼できない」という固定観念が強まった。

そして1997年。「パレード禁止したらカトリックの一般人を殺す」という警告が、LVFによって出された。LVFとは、ロイヤリスト武装組織UVFのミッド・アルスター・ブリゲードがUVFを「破門」されて独立した組織(といってよいだろう)。当時、和平に向けて動いていたUVFの本部にはコントロールできないほど過激で暴力的な一派で、そのリーダー、ビリー・ライトはポータダウンを拠点としていた(出身はイングランドだが両親は北アイルランドの人で、本人は北アイルランドで育っている)。ライト自身、この年の年末に、脅迫容疑で有罪となって服役中、メイズ刑務所の中でリパブリカンの超過激派INLAのメンバーに射殺されたが、LVFという組織はそのまま残っている。

今年、本格的になんかちょっと……と思うのは、そのLVFも出てきてるらしいからなんだけどね。。。

このような「プロテスタントの排外主義的なパレード」をめぐる行政・政治の体制が現在の形になったのは、1998年のことだ。ウィキペディアより:
Early in 1998 the Public Processions Act was passed, establishing the Parades Commission. The Commission was now responsible for deciding what route marches should take.

つまり、「パレード・コミッション」ができた。警察が申請されたルートを検討するのではなく、専門の機関をおいて、オレンジ・オーダーのマーチのような宗派ベースのパレードについて監督していこうというものだ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Parades_Commission

これに対し、「お上が決めたことだから」……となるはずがなく、オレンジ・オーダーは「われわれの伝統にケチをつけるのか」と大反発。そっちはそっちで勝手にやってれば、的な態度を取っている。あんたたちのために設置された機関だっつーの。。。

この年の12thには非常に悲しい、許しがたい事件が起きている。ポータダウンとはネイ湖を挟んで反対側の北の方にあるバリーマニーという町のプロテスタントのエリアに暮らすカトリックの母親の家に、早朝4時半ごろ、ロイヤリストによって火炎瓶が投げ込まれた。9歳から11歳の3人の子供が焼け死んだ。この家族は、母親はカトリックだったが、彼女のパートナーはプロテスタントだった。子供たちは母親の宗派で育てられていたが、学校はプロテスタントの学校に通っていた。

この事件は、ポータダウンというかドラムクリーでのあれこれに対するプロテスタントの反発、という文脈で起きたものだ。
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/july/12/newsid_2500000/2500503.stm

事態とは無関係の子供たちを3人も殺したこの事件で、オレンジ・オーダーも強硬な姿勢を貫くことの無意味さを……悟らないのよ。

そのときは反省はするんだけど、すぐに「だがこちら側よりあちら側が」の理屈が出てきて、最終的には「われわれはローマ法王の支配は受けない!」で「おー」と団結するので。

1999年、2000年と、「毎年恒例」と化した騒ぎが続いたドラムクリーは、それでも、2000年代は比較的平穏が保たれてきた。ウィキペディアを見ると、ポータダウンからあのへん一帯の外からのオレンジマンへの支援が減少している、という。

北アイルランド紛争とその残滓を見ていると、人々はどこまで、主義主張や信条のために人を殺し、死なせることに納得できるのか、というのが問題の中心にあると思う。

その最もエクストリームな形が、例えばIRAとINLAの1981年のハンストであったり(IRAは最も「有能な義勇兵」の何人かを餓死させた)、マイアミ・ショーバンド事件やキングズミル事件のような「敵対する勢力に属する一般市民の問答無用の処刑」であったりする。もはやどのような主義主張を持って来ても異常、というような。

一方で、それらに比べればあからさまな「暴力」ではない宗教勢力の優越主義の顕示は、これは一体何なのだろう。「想像された共通の伝統の維持」?

本稿の最後に13年前、1998年の記事を。

Siege of Drumcree
Sunday, July 5, 1998 Published at 18:52 GMT 19:52 UK
http://news.bbc.co.uk/2/hi/events/northern_ireland/focus/127075.stm

このころ、オレンジ・オーダーなどプロテスタント強硬派の主張に頻繁に見られた "right to march" (行進する権利)というキャッチフレーズは、2007年にストーモントの自治議会・政府がDUPとシン・フェインの権限分担のもとで再起動してから、前ほど聞かれなくなった。




※この記事は

2011年07月04日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:00 | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼