「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2011年06月27日

デリーで「手」はつながれる〜ピース・ブリッジ

さて、前項でベルファストの「プロテスタント」と「カトリック」の間の境界線として設営され、その機能を果たしているピース・ウォールをGoogle Street Viewで見てきたが、人口の壁を築くまでもなく地形によってそういう境界線があった場所で、その境界線のあちらとこちらがつながれた。

デリーの「プロテスタント」の地域であるウォーターサイドと、「カトリック」の地域であるシティサイド(旧市街側)の間を流れるフォイル川に、両地区を結ぶ3本目の橋がかけられ、25日、開通式が行われた。

Saturday, 25 June 2011
Derry's Peace Bridge opened
http://www.u.tv/News/Derrys-Peace-Bridge-opened/c8def79c-0a39-47b9-8f5a-7c55d8ad2039

デリーという都市は、フォイル川の西側に開けた街である。1921年のアングロ・アイリッシュ条約でアイルランド島が「アイルランド自由国」と「北アイルランド」に分断されたとき、カウンティ・ロンドンデリー全体で「北アイルランド」に組み込まれたが、デリー自体は昔から、フォイル川を挟んだ東側よりも、西のほう、つまり地理的条件で遮られていない「アイルランド(自由国(現在の共和国)」のカウンティ・ドニゴールとのつながりが強かった。

これまでフォイル側の西と東を結ぶ現存の橋は、2本しかなかった。デリー市の北のはずれのほうにあるフォイル橋と、その少し上流、都心部からほど近いところから架けられているクレイガヴォン橋である。前者は4車線の自動車道路(A道路)で1980年代前半に作られた。後者は、北アイルランドの初代首相の名前を取って名づけられているが、1920年代に作られた鉄道用の橋で、現在は二階建ての上も下も車道となっている。なお、19世紀までの時代には、クレイガヴォン橋の少し上流に2本の橋がかけられていたという。

そしてこのクレイガヴォン橋のたもと(シティサイド)にあるのが、デリー出身の彫刻家、モーリス・ハロン(1946年生まれ)による「和解/あちらとこちらをむすぶ手 (Reconcilition/Hands Across the Divide)」という彫刻だ。


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目と目を見交わし、互いに手を差し伸べあっている2人の足元にある「溝」はフォイル川だ。この彫刻は、デリーの公民権運動のデモが「暴徒化」し(<日本のマスコミのクリシェを借りた)、英軍が発砲して13人を殺し、「連中は非武装ではなかった」と虚偽の発表を行なったブラッディ・サンデー事件から20年を迎えた1992年に除幕された(ソースはロンリー・プラネット)。単純に年数だけで見て、1994年のIRA停戦の2年前――というかロンドンのダウニング・ストリートにIRAの迫撃砲攻撃があったのが1991年2月、バルティック・エクスチェンジを全壊させたシティの爆弾事件が1992年4月……という「時代」だ。この彫刻では、2人の人物の手はつながりそうでつながっていない。「この先、きっといつか、つながるはず。つなげなければ」という《希望》がテーマの作品だ。

そして今回開通した「ピース・ブリッジ」は、その「つながる手」をモチーフとしてデザインされている。上空から見るとゆるく湾曲したS字型で、水平で見ると一部が重なり合っている。建設したIlex Urban Regeneration Companyのサイトに詳細が説明されている。資金はEUの「ピース III」の基金(空間の共有)から出されている。(で、この橋に関わる業務で地元デリーの業者への発注は実はほとんどなし=デリーに金は落とされない、という問題もでてきているのだが、まあEUのハコモノ行政だわねー、という感じはすごくある。)
http://www.ilex-urc.com/Projects/Peace-Bridge.aspx

Google Mapの航空写真には、現状、建設途中の状態が写っている。


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当初、昨年中に完成する予定だったのが、悪天候(特に冬の降雪)などで半年ほど遅れたとのこと。

土曜日の式典の前、この橋をめぐるニュースを読んでいて感じたのは、非常に人工的な「良いニュース」の感触だった。(ロリー・マキロイの全米オープン優勝の「単なるお祭り騒ぎ」との対照があったから感じられたのかもしれない。)

何よりこの橋が、歩行者と自転車専用で、ゆるく湾曲しているという事実は雄弁だ。(車社会の現地において)「交通」のための道というより素の人間と人間が空間を共有する(同じ空間に同時に身をおく)ことになる道。

式典についてのUTVの記事から:
Martin McGuinness was joined at the event by the Social Development Minister, Minister for Culture, Arts and Leisure and OFMDFM Junior Minister Martina Anderson.

He emphasised that moving forward needs to be a unified process.

"Change cannot happen without the full support of us all," said Mr McGuinness.

"So it is up to you, me, my colleagues in the Executive and the Assembly to continue to work positively together to build upon the good work that has already been done -recognising that differences still exist but respecting those differences.

Also speaking at the event the Social Development Minister Nelson McCausland added: "Over time the bridge will become an iconic representation that will define this city.

"Physically and metaphorically it links what now are two communities and we hope will encourage greater levels of positive engagement between them.

"It represents our aspirations to work towards a shared and welcoming city that everyone in the community enjoys and can feel welcome in."

いうまでもないが、マーティン・マクギネスは70年代デリーIRAの司令官だった人物。OFMDFM(正副ファーストミニスター・オフィス)のジュニアミニスター(「官房長官」的な役割)のマルティナ・アンダーソンも元IRAで、武器の所持などで有罪となり、1998年和平合意で釈放された「テロリスト」だ。(しかしOFMDFMのジュニア・ミニスターというポストは、元爆弾犯が連続という……アンダーソンの前はジェリー・ケリーだった。)

一方、社会開発大臣のネルソン・マッコースランドは、がちがちのユニオニストで反シン・フェインで、ジェリー・アダムズが 【おっと、うっかりしゃべっちまうところだった】 という話を議会で使うべきでない言葉で語って、懲罰対象となったりしている。シン・フェインが成立させようとしている(というか1998年グッドフライデー合意で決められていた)アイルランド語を公用語とする「言語法」への抵抗、「アイルランド語をというのなら、アルスター・スコッツも」という運動(実際には、アルスター・スコッツだけをあえて使うという人も機会もほとんどないというが……基本的に「英語」なので)などもしている。

テープカットの式典では、彼らシン・フェインとDUPのほか、アイルランド共和国首相やらSDLPのマーク・ダーカンやら、北アイルランドを中心に見たときに「仲の悪い人同士」が狭い空間にぎゅっと並んでいる。(真ん中の、はさみ持った人はEUの人であってNIとは関係ない。)

それと、式典には引退したジョン・ヒュームの姿もある(1968年のデリー公民権運動のときから先頭に立ってきた人で、1998年和平合意の立役者)。久しぶりに姿を見るが、お元気そうで何よりだ。

とりあえず開通の日に参加しに来た人たちは大勢いて、子供からお年寄りまで、嬉しそうに橋を歩いている。お天気がイマイチ(曇天、寒そう)なのが残念だが、UTVのインタビューに答える人たちはみな楽しそうだ。FMDFMでさえも。(ピーター・ロビンソンは何かおもしろいことを思いついたが言うのを我慢しているときの顔。人前でマクギネスとあんまり仲良くしすぎないことにしているらしいが、カメラがなければ冗談のひとつでも言い合ってげらげら笑っていたのかもしれない。)

※この記事は

2011年06月27日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼