「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2011年06月22日

東ベルファスト、暴動は2日連続で。

東ベルファストは、2晩連続で荒れた。

1日目(月曜日)は500人規模と報じられていたが(警察のプレスリリースで「400人から500人」となっている)、2日目(火曜日)は報道によると700人規模、しかもナショナリストの側(ショート・ストランドの中)は2日目は街頭には出ていないということなので、ロイヤリストの側で初日より規模が拡大しているのだろう。既に月曜日の段階で双方から発砲があり、また頭蓋骨骨折の怪我人が出るなどしていて、DUPの人は「東ベルファストでは1969年以来最悪の暴動」と述べていたそうだが、火曜日には発砲のため取材中のカメラマンが脚に負傷した。

月曜日と火曜日の現地ジャーナリストなどの報告ツイートまとめ:
Major rioting in east Belfast
http://chirpstory.com/li/1816


月曜日、ローリー・マキロイ関連のお祭り騒ぎと、まだ「小規模な騒乱」と伝えられていた段階のこの暴動についての報道が交錯している様子(マキロイの拠点であるホリウッドと、暴動の現場のショート・ストランドとは、5マイルくらいしか離れていないとか、その5マイルの距離をはさんでゴルフボールの使われ方が全然違うとか)や、火曜日の昼間、ストーモントの議事堂のグランド・ギャラリーで議員たちの文化祭みたいなのが開催されているという呑気な報告などと、「暴動」とのコントラストが何ともいえない。「暴動」についてのジャーナリストたちの140字以内での報告は、時間を追うにつれて緊迫した内容になっている。


このベルファスト・テレグラフのトップページの2点の写真は、皮肉なことに、実は非常に近い場所で撮影されている。トロフィーを抱えたローリー・マッキロイの背後にある黄色い物体は造船所のクレーンで、その造船所はタイタニック号などが建造されており、暴動が発生したのはその造船所を記念するミュラルの前だ(詳細後述)。ちなみにすぐ近くに、『ナルニア国物語』のC. S. ルイスのミュラルもある。ぐるりと見回すようにすると、黄色いクレーンが確認できるはずだ。

2日連続となった暴動は、ベルファスト・テレグラフ以外にも各メディアで大きく取り上げられている。BBC Newsの全体のトップページにも「ベルファストで暴動2日目」のニュースがある(トップニュースはギリシャ、続いてメキシコのドラッグカルテル、3番目がオセアニアの空の便についてのニュースで、ベルファストのは5番目に来ている)。



暴動とほぼ同じタイミングで、キングズミルズ事件(1976年、繊維工場の労働者を乗せた通勤の乗り合い車両が、休戦中だったはずのIRAに襲撃され、乗っていた労働者のうち、カトリックの人ひとりを除いてプロテスタントの人10人が射殺された事件。リパブリカンとロイヤリストの争いのなかで「一般市民を殺すこと」が目的の事件のひとつ)についてのHETの報告書が出たり、ボストン大学が行った、当人の死後にのみ公開することを条件として行われた紛争当事者へのインタビュー(既に鬼籍入りしたIRAのブレンダン・ヒューズと、UVF、後にPUP党首のデイヴィッド・アーヴァインのものは公開されている)での存命中のドロース・プライスのテープをPSNIに渡せとの正式な命令が米当局から出され、大学がそれに異議をとなえていることなどが報じられた。

「紛争」は終わった。でもまだ終わっていない。その境目の状態というのは、ずうっと継続していくんだと思う。

そして、「正義」のために「過去」へまなざしを向けること、手を入れることについては、「その費用を未来の為に使うべき」という一見プラグマティックで合理的な意見が出される(その実、真の意図は「隠蔽」にあるという可能性を見落としてはならない)。

一方で、「過去」の枠組みを温存し、利用しようとする人々もいる。それは社会のどこかで常に、「過去」が完全な「過去」にはなりきらないためだ。「遺恨」のためもあるし、「過去」に構築されたシステムの中でしか生きられない人たちがいるというためもある。(「遺恨をひきずる」という点では、日本でも「会津と長州」、「吉良町と赤穂市」のような例がある。)

次項ではその点についてもう少し。

なお、今回の「暴動」については、私が見た中で最も「始まり」を克明に記録しているように思われるEirigiのブログのエントリを紹介しておく(ただしアジ演説成分を差し引いて読める人以外にはお勧めしない)。ショート・ストランドの住宅にペイントボールが投げつけられるなどしたのが「始まり」だったそうだ。ベルファストのロード・メイヤーは、発端は100人程度による襲撃だったと述べている。

※この記事は

2011年06月22日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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