「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2011年06月18日

戦場カメラマンたちの仕事(ガーディアンの特集)

18人の戦場カメラマンの写真と言葉。ガーディアンの特集。



The shot that nearly killed me: War photographers – a special report
The Guardian, Saturday 18 June 2011
http://www.guardian.co.uk/media/2011/jun/18/war-photographers-special-report

写真メインで見たい人は、同じ内容でスライドショー:
http://www.guardian.co.uk/media/2011/jun/18/war-photographers-special-report

取り上げられている戦場カメラマンは下記の方々:
Adam Ferguson, Afghanistan, 2009
自爆のあった現場、軍が封鎖する前に滑り込んだカメラマンは、爆発の被害を受けた建物から女の人が救出されるのを撮影した。女の人は両脇を男性2人(兵士と、ウォーキートーキーを持った平服の人)に抱えられ、自分の足で走っている。

Alvaro Ybarra Zavala, Congo, November 2008
珍しく単独行動していたカメラマンの目の前に、ナイフをくわえた男が飛び出してきた。周囲でまったりしていた男たちは笑い出した。カメラマンはシャッターを切った。ナイフをくわえた男は、人間の手を戦利品のように持っていた。

Lynsey Addario, Libya, March 2011
3月15日にリビア東部でカダフィ側の勢力に身柄を拘束され、数日後に解放された4人の米国人記者のひとり。写真に添えられた文章は拘束の様子を語るもの。

João Silva, Afghanistan, October 2010
アフガニスタンに入って1ヵ月後に地雷を踏んだカメラマン。吹き飛ばされた彼は、兵士に助け出される間もシャッターを切った。その連続写真3枚。

Tom Stoddart, Sarajevo, 1992
この写真、見たことあると思う。スナイパー・ストリート。写真家は「軍隊ががんがん撃ちあってますみたいな写真にはあまり興味がなく、戦争の中を生きる人々に興味がある」と語っている。「私は出て行こうと思えば出て行ける。しかしサラエヴォの人たちはそうではない」

Greg Marinovich, Soweto, 1990
この写真を撮影する1ヶ月前、カメラマンは始めて暴力を目の当たりにした。男が撲殺されるのを止めようとしなかったという自責の念は拭えなかった。この写真は、撮影はやめろと言われて「その人を殺すのをやめたら俺も撮影をやめる」と言いつつ撮影。それでも殺害は止まらなかった。「肉の焼けるにおいを鼻に入れないようにして、さらに何枚か撮影した。いつ暴力が自分に向けられるかもしれない状況だった。火を放たれ頭を割られた被害者は、うめいていた。車に乗り込んで角を曲がったとたん、私は叫び始めた。単にジャーナリストであるとか、単に人間であるということはない。常に両方の要素が混じり合った存在だ。その2つの要素をわけようとすることは複雑だ。私は頻繁に、自分の写真に罪の意識を覚えてきた。……」

Gary Knight, Iraq, April 2003
イラク戦争の初期の写真。米軍がバグダードに入る前、ディヤラ橋で撮影。イラク軍の砲撃を受けた直後。

Shaul Schwarz, Haiti, February 2004
騒乱のポルトー・プランスで、カメラマンはカメラを腰のところに構え、目立たないように写真を取っていた。壁を乗り越えたところに、この少年がいた。カメラマンは「こんなことにまでなってしまったのか」と思った。デジカメを使った最初の仕事で、すぐに写真が見られることに感動して液晶を見ていたら、その間に周囲からはみなが逃げだし、写真家は自分と襲撃者がサシで向かい合っているという状態に。

Eric Bouvet, Chechnya, May 1995
「映画を見たり本を読んだり、想像したりすることはできる。しかし、何かを目の前にしたら、それは映画とは全然違う」。ロシア特殊部隊にエンベッドしていた写真家は「2週間、自分がやった仕事の中で一番信じがたいものだ」と語る。特殊部隊による拷問、殺害、レイプを目撃し、そして制止しなかった。「まともな人間なら受け容れがたいことだ」。写真は4人が死に10人が負傷した激戦の翌朝、一番に目にした光景。カメラマンの4メートル向こうにはチェチェン人の死体があった。頭に包帯を巻いた男は一晩中戦い、友人たちを亡くしている。「ロシア軍に同情は感じないが、一方で私を同行させ私を守ってくれたのも彼らだ。彼らなしには取材はできなかった。私は目撃者にすぎない。とても複雑な話だ」

Mads Nissen, Libya, February 2011
ガーディアンのトップページにきていた写真。アジュダビヤ陥落直後。「燃えている戦車にはさほど関心はない。人に関心がある」

Adam Dean, Pakistan, December 2007
厳しい写真です。ベナジール・ブット暗殺現場。道路にいくつもの死体が転がり、手前に身なりの良い男性が、たぶん脚を負傷して、座っている。写真家は「死体を見たのはこのときが初めてだった」と回想し、爆発のあった現場のことを生々しく思い出して語る。

John D McHugh, Afghanistan, May 2007
岩陰に身を潜める兵士たち……米軍にエンベッドしていたカメラマンは、この写真を撮影した直後に被弾した。

Marco di Lauro, Iraq, November 2004
赤いラグの上に倒れている男は、この写真が撮影される一瞬前、カメラマンの側(つまり米軍)に手榴弾で攻撃を加えていた。場所については書かれていないが、ファルージャだろう。

John Stanmeyer, East Timor, August 1999
独立前、激しい紛争の東ティモール。カメラマンの右耳を銃弾がかすめ、髪がゆれた。「もし頭を右に傾けていたら今ここにはいなかっただろう」。その直後、独立派の男性がインドネシア国軍に銃を突きつけられているのを見た。男性が走り出すと兵士は捕まえて蹴りつけた。彼の血は20フィート(6メートル)にもわたって流れていた。軍はカメラマンの写真が気に食わなかった。

Ashley Gilbertson, Iraq, 2004
米海兵隊エンベッド。主語が全部 "I" な感じの文章で、気分的に読めない。

Ron Haviv, Bosnia, 1992
写真だけ一瞬見たら、90年代のベルファストかと思った。セルビアの極右、アルカンの軍勢の男たち。路上でムスリムの一般市民(肉屋とその妻と義理の妹)を「処刑」したばかり。これが、ボスニアの民族浄化の始まりだった。写真家は後に、また別の「処刑」を撮影していてアルカンに現場を押さえられた。アルカンは「フィルムは俺が現像する。俺がいいといったもの以外は表には出させない」と言った。その日既に撮影してあったフィルムのロールはポケットに入れてあった。カメラに入ってるフィルムはだめだとがんばれば、ポケットの中まで探りはしないだろうと計算した……。

Julie Jacobson, Afghanistan, August 2009
倒れた米兵と駆け寄る米兵たち。倒れている兵士は爆発(RPG直撃)で脚を失った。メディアのお約束として、誰なのか特定できる形では米軍側の被害は撮影しないことになっているが、被弾した兵士の手が銃にのび、顔がカメラマンのほうを向いたので、2分半の間に9枚撮影した。兵士はその後死んだ。人々はカメラマンに「兵士に尊厳を与えなかった、撮影ではなく助けるべきだった」と言った。「しかし私には命を救うことはできなかった。彼に背中を向けることは失礼なことだった」

Ami Vitale, Gaza, October 2000
写真家はその日、葬儀を撮影していた。ご遺体が運ばれてくるとき、葬列の中から「CIAの工作員だ」との声がした。写真家が指さされていた。そして何百人もの男たちに囲まれ、怒号を浴びせられ、写真家は「これで終わりだ、死ぬんだ」と考えた。と、そのとき群集が考えているわけではなく単に熱情に突き動かされているのだと理解した。その日、それまで一緒にいた女性が、写真家を群集から引き出してくれた。

※この記事は

2011年06月18日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:30 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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