「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2011年06月10日

【訃報】ブライアン・レニハン元アイルランド共和国財務大臣

「元」っていってもつい最近まで財務大臣だったんだけどね。(なので「前」を使えばよいのだが英語ではその区別はなくformer。)

リーマンショック、アイルランドのバブル崩壊からIMFとEUの支援受け入れ決定までの時期を、アイルランド共和国の財務大臣として経験したの政治家、ブライアン・レニハンが亡くなった。52歳だった。財務大臣在職中の2009年12月に膵臓がんであるとの宣告を受け、治療を受けながら政治家としての仕事を続けていた。

IMF支援受け入れ決定後のこの2月のアイルランドの総選挙では、レニハンは非常に厳しい選挙戦を強いられた。政治家として名門の人だが、今年の選挙では当選が確定したのは5ラウンド目。しかもそれが首都ダブリンに当時の「与党」のFianna Failが獲得した唯一の議席だった。(議員の死という出来事によるものとはいえ、FFがダブリンで議席ゼロになるなんて、アイルランド史上初ではないか。)

Twitterでニュースがどう広がったかの覚え書きとして:
http://chirpstory.com/li/1720

アイルランド国営放送、RTEのニュースのトップページ:


アイリッシュ・タイムズ:


アイリッシュ・インディ:



1959年、政治家のブライアン・レニハン・シニアの息子としてダブリンに生まれ、トリニティ・コレッジ、英ケンブリッジ大のシドニー・サセックス・コレッジ(皮肉なことに、オリヴァー・クロムウェルの出身校だったりする)を卒業。職業は弁護士(バリスター)。

お父さんは1957年に初当選して以降、政治家として要職を歴任してきたが、1995年に病気で他界。その地盤を引き継ぐかたちで政界入りしたのが、ブライアン・レニハン・ジュニアである。以後、「与党の顔」としてのテレビ出演などしながら、2002年には子供担当大臣(〜2007年)、2007年には司法大臣(〜2008年)、そして2008年には財務大臣(〜2011年)。

詳細はウィキペディアと、それがソースとしている記事などで。
http://en.wikipedia.org/wiki/Brian_Lenihan,_Jnr

RTEのオビチュアリ(キャリアを振り返る)を見ると、「名門一家の出身」、「カリスマティックな党首のもとでなかなか上に行けなかった二番手」から、財務大臣となり、リーマンショック後のアイルランドの住宅バブル崩壊、NEMAと銀行救済、増税と歳出削減、公務員給与と福祉の削減、IMF救済……ブライアン・カウエンが退陣したあとのFF党首選に立候補したときの映像など、顔がやつれているだけでなく、体も痩せてしまっている(スーツが一回り大きいのでトーキング・ヘッズみたいになってる)。当時は(いくつかニュースクリップで見ているが)仕事の負担が大きいのだろうと思ったが、病気も進んでいたのかもしれない。

最期は病院ではなく自宅で、家族に囲まれて迎えた、という。

私は10日の午後7時少し過ぎに、Brian LenihanがTwitterでUKのTrending Topicsに入っているので、入院した(緊急で病院に搬送されるなど)のかと思ったが、いきなり訃報だったので非常に驚いた。

FFは下野したとはいえレニハンは現役の政治家だし、ましてや経済危機(というか崩壊)のときに財務大臣だったということもあるし、誰もがみな好意的に見ていたという人ではない。

Chirpstoryに「まとめ」た(アーカイヴした)人々の声は、その複雑さを示すものがけっこう多い――「惜しい人を亡くした」とストレートに追悼するわけではなく、「彼のポリシーには賛成できなかったが」という前置きがつくものが、かなり多い。(あるランダムな時間帯にランダムに拾っただけで、私は編集は加えていない。)おそらく、《その名をタイプすると私は呪われくしゃみが止まらなくなる人物》についても、このような反応になるだろうと思う。



「FF支持者ではないが、レニハンのアプローチと意志には感服していた」とある男性。


でも結局のところ、これだと思う。これについて、反芻する時間が政策決定者であるレニハンに与えられなかったことは、非常に残念なことだ。
http://sluggerotoole.com/2011/06/10/brian-lenihan-rip/
Whatever he is remembered for privately, by his family and friends, even at his death, it is impossible not to mention the bank guarantee, the IMF-ECB deal and the economic morass of the last few years. On the BBC, Jim Fitzpatrick states:
His legacy will be forever tied to that decision and its consequences which continue to define Ireland’s current economic plight.


しかし、52歳は若すぎる。合掌




Brian Lenihan dead from pancreatic cancer at 52
http://www.independent.ie/national-news/brian-lenihan-dead-from-pancreatic-cancer-at-52-2671843.html

Brian Lenihan remembered as a politician of integrity
http://www.irishtimes.com/newspaper/breaking/2011/0610/breaking18.html
メアリー・マカリース大統領は大学時代から知ってると。同世代、同大学、同専攻(マカリースも法律家)。

Former Irish finance minister Brian Lenihan has died
http://www.bbc.co.uk/news/uk-northern-ireland-13724008

Reaction to Brian Lenihan's death
http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-13728169
DEPUTY FIRST MINISTER MARTIN MCGUINNESS:

"He was not just a good politician, he was a very affable person, someone who was very inclusive and someone who was a character in his own right.

"We are not just losing a very experienced politician, someone who made a massive contribution to life on this island, but we have also lost a very dear friend."

ブライアン・レニハンという政治家は、シン・フェインとIRAには決して「友好的」ではなかったというが、マーティン・マクギネスは「かけがえのない友人」と述べている。

FF党首、ミホール・マーティン:

"He never faltered in the eye of the storm" - statement from Michéal Martin on the passing of Brian Lenihan http://t.co/N5nzA02less than a minute ago via Tweet Button Favorite Retweet Reply

※この記事は

2011年06月10日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:01 | TrackBack(0) | 雑多に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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