「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2011年05月21日

英女王、アイルランドでの日程終了(ニュースサイトのキャプチャ)


金曜日午後(現地)、英女王一行が4日間のアイルランド共和国滞在の日程を終了し、英国に戻った。実に100年ぶりに同地に足を踏み入れた英国の国家元首は、1日目、2日目はダブリン、3日目はキルデア、そして4日目は「反英勢力」のストロングホールドとして知られるコークで過ごした。訪問直前に、例によってReal IRAが勇ましいことを言うなどしていたし、実際に長距離バスにパイプボム、という事件もあったが、概ね平穏だった。女王訪問に対する反対や抗議は、シン・フェインが組織した平和的なもの(黒い風船を飛ばし、垂れ幕を窓の外に出す)と、RSFと32 CSMによる暴れ系(ただし人数が少なくて「暴動」には至らず), Eirigiによる座り込みはあったし、hoax bombもいくつかあったが。

アイリッシュ・タイムズはコークのEnglish Marketを見学している女王の写真をトップページに掲載している。



女王の服装は、到着時はエメラルド・グリーンのコート、帰るときは少し黄色味の強い若草色のコートで、「緑の島」への気持ちが示されていたと思う。なお、「緑色を着る」ことはユニオニストにとってはタブーで、到着時の女王のコートについても、今回の晩餐会の招待客として18ヶ月ぶりに公の場に姿をあらわしたアイリス・ロビンソン(北アイルランドのファーストミニスター、ピーター・ロビンソンの配偶者)の鮮やかな「エメラルド・グリーン」のドレスについても、ベルファストのユニオニスト&ロイヤリストの側の新聞であるNews Letterは、greenという語を使わず、jadeという語で通している

ははは。

以下、訪問中のメディアのサイトの記念撮影をもう少し。いずれも、画像中の記事見出しクリックで記事が読めます。

19日、ベルファスト・テレグラフ:


19日、アイリッシュ・タイムズ。晩餐会のあと:


19日、ベルテレ。戦没者記念庭園での献花:


同じく、アイリッシュ・タイムズ:


18日、ベルファスト・テレグラフ:


18日、アイリッシュ・タイムズ:



一方で、「あちら側」の牙城では……

(^^;) まあ、この人たちがいきなり「女王に親しみを覚える」みたいなことを言い出したら、明日世界が終わるかもという気分……はっ、そうか。この鉄壁の「通常運転」モードがなかったらラプチャーがどうのこうのを笑っていられなかったのかもしれん。非科学的な私。

※この記事は

2011年05月21日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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