「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2011年05月17日

英女王、アイルランド訪問

17日正午すぎ(現地時間)、エリザベス女王ご一行がダブリンに到着した。物理的な距離の近さをまざまざと見せ付けるような、冗談みたいにかわいい飛行機から降り立ったクイーンは、鮮やかなエメラルド・グリーンのお召し物だった。(「うは、レプラコーン」と思ったことはナイショだ!)

BBCの特別中継番組(ウェブで見ることができた)では、ゲスト解説のファーガル・キーンが「アイルランド人といえば賭けですが(PaddyPowersなど有名なブックメイカーが何かと楽しい賭けをしている)、今回も『女王の服の色』で賭けが行われ」云々と小ネタを展開していた。BBCではしきりに、「1対1の、対等な関係」、「古くからつながりのあるよき隣人」を強調していた。(実際、アイルランドは法体系が英国法そのものだったりして、あえて大陸法のスコットランドよりよほどイングランドに近い、という話もある。)

女王夫妻はダブリン空港に到着し、30分から40分ほど後に大統領宮殿The Aras(元植民地総督の邸宅)に入り、国賓としてのゲストブックへの記帳、閣僚らとの挨拶、軍による出迎え(アイルランド軍が、つまり1921年まで「IRA」だった組織が、God Save the Queenを演奏した!)と閲兵といった形式ばった手続きをこなした後で、20人ほどの招待客とともにランチ。招待客の中には、1998年GFAでのノーベル賞コンビ(SDLPのジョン・ヒュームと、UUPのデイヴィッド・トリンブル)、アライアンス党のアンナ・ロー(アジア系で初の北アイルランド自治議会議員)ら、北から招かれた人もいるとのこと。

午後は戦没者慰霊碑やガーデン・オヴ・リメンブランス(独立闘争慰霊庭園)への訪問の予定。

重要なイベントはBBCとRTEでウェブ中継されるので、気になる人はチェック。どちらも中継がOFFのときはハイライト映像あり。
http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-13424403
http://www.rte.ie/news/2011/0517/queen_tracker.html

テクストだけがいい人はガーディアン:
http://www.guardian.co.uk/uk/blog/2011/may/17/queen-visit-ireland-live

RTEではダブリンの町の様子なども映しているのだけど、半袖Tシャツ1枚の人とすれ違うのがもこもこの長袖ダウンジャケットの人だったりして、よくわからない。全般的に服装から判断すると、今の東京と同じくらいの陽気かなあ。

で、BBCでもRTEでも、私が見ていた限り、1974年5月17日のことには、まったく触れない。それに触れずに「よき隣人としての新たな歴史の1ページ」を強調。うーん。

1974年5月17日のダブリンとモナハンでの爆弾事件は、同時に複数の爆弾によるものだったけれども、それでも、以後1998年までの北アイルランド紛争の中で、最大の犠牲者数を出した(ダブリンで26人、モナハンで7人の合計33人が死亡、負傷者数は300名近く)。1993年になって、調査報道でいろいろ探られ暴かれ、UVFが犯行を認めたのだが、実行には英国の治安当局の者も関わっていたとの疑惑もかなり色濃くある。しかし、英国政府はファイルを公開していない(「30年ルール」適用除外)。このファイル公開をめぐる対立は、英国とアイルランドの間に残った最後の対立のひとつなのだが(アイルランドは欧州人権裁判所に訴えることもできる)、いずれにせよ女王には政治的決定権はない。今回、事件被害者の遺族や関係者、およびシン・フェインなどがファイルを公開するよう求めている。RTEに遺族・関係者による公開書状が出ている。

Open letter to Britain's Queen Elizabeth from Justice For The Forgotten
http://www.rte.ie/news/2011/0516/open_letter.html

Eirigiなど「女王は歓迎しないぞー」系の抗議行動は、特に目立った動きはないとのこと。通常、国賓がガーデン・オヴ・リメンブランスを訪れる場合は一般市民も遠くから見学するくらいはできるのだが、今回は完全に一般人立ち入り禁止にしているとのことで、まあそりゃ、あれだけ公然と「ターゲットにしますよ」宣言がなされ、実際に長距離バスで爆発物(といってもパイプボムだが)が発見され処理されたり、いくつかhoax bombが出たりするなどしているわけで……。

あと、「うぉ」と思ったのはBBC Liveで紹介されたこの読者メール。



以下は、女王訪問を報じる各メディアのキャプチャ。画像中のヘッドラインをクリックすると記事に飛びます。

RTE(アイルランド共和国の国営……配色が特別仕様だよね):


BBC:


The Irish Times:


The Irish Independent:


※この記事は

2011年05月17日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 22:50 | TrackBack(0) | todays news from uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。