「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2011年04月28日

【速報】パレスチナ、ファタハとハマスが和解

夜中にこういうでっかいニュース。

※日本時間午前3時台のアルジャジーラのニュースから:


とりあえず英語でのニュース系&ガザからのtweetをまとめました。

#Palestine: Fatah and Hamas agree to historic reconciliation deal
http://chirpstory.com/li/1250


18:00 GMT (= 03:00 JST) からアブー・マゼン/マフムード・アッバス(ファタハ)とハリド・メシャール(ハマス)の【←UPDATE: 実際には別の人たちだった】共同記者会見がカイロであるらしいです。アルジャジってれば見られるんじゃまいか。
http://english.aljazeera.net/watch_now/

アルジャジーラのトップページ:


「和解」のニュースとほぼ同時に出たらしいハアレツの記事:
Netanyahu: Palestinian Authority must choose - peace with Israel or Hamas
Published 20:10 27.04.11
Latest update 20:10 27.04.11
http://www.haaretz.com/news/diplomacy-defense/netanyahu-palestinian-authority-must-choose-peace-with-israel-or-hamas-1.358460

つまり、イスラエルはPA(ファタハ)に対し、「あたしを取るの、それともハマスを取るの?」という最終決断を迫っていたらしい。そしてファタハの結論はハマス。そしてネタニヤフが上記のような声明を出した(「残念である」という用語法での是認ではなく、明確な反対である)。

背景としては、エジプトでムバラク政権が倒れたことで、エジプトの「国民の声 vox populi」が、為政者にとって「封じ込めるべきもの」ではなく「聞かれるべきもの」として再定義されたことはかなり大きいと思う。(最近、エジプトの、軍はよくわからないけど、政治指導者からは明らかに「ポピュリスト」的な発言がよく聞こえてくる。特に大統領選に出る予定の某大物は、リビアについて「アラブの連帯」を強調してみたり、ガザ地区について「飛行禁止空域を設定すべし」と言ってみたりしている。)

米フォーリン・ポリシーのブレイクさんも、「オマー・スレイマンが完全に消えたか」とぼそっと言っていた。

しかしアメリカが反応薄い。今日はさっきオバマの出生証明書が示されて(バカバカしい!)、その前に何か重要なことがあって(何があったのかは、詳しくチェックしてないので忘れた)、そのあとにバーナンキが記者会見を生でテレビで流すという珍しいことをしていて、多分国内ニュースでいっぱいいっぱいなのだろうけれども、反応薄い。

この点については、「(アメリカには)情報がないから」という説明も見たけど。

少し時間が経過すれば、たっぷりした解説記事もでるはず。

※この記事は

2011年04月28日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 02:50 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼