「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2011年04月24日

ソンビ

95年目のイースターに。(今年、日程がほぼ同じなんだよね。1916年はイースター・マンデーが4月24日。今年はイースター・マンデーは25日。)
It's the same old theme since 1916
In your head, in your head, they're still fighting
With their tanks and their bombs
And their bombs and their guns
In your head, in your head, they are dying

-- The Cranberries, Zombie




B000068VHQNo Need to Argue
Cranberries
Island 2002-06-20

by G-Tools


1994年9月にビデオ・シングルとしてリリースされたこの曲をクランベリーズが書いたきっかけとなったのは、前年に発生したウォリントン爆弾事件だったという。
http://en.wikipedia.org/wiki/Warrington_bomb_attacks

1993年3月20日(土)の昼過ぎ、イングランド北西部、マージー川沿いにあるウォリントン (Warrington) という地方都市のショッピングセンターで2度、爆発が起きた。その30分ほど前に、サマリタンズ(英国の「いのちの電話」)に暗号を使った「リヴァプールの商店に爆弾を仕掛けた」との電話連絡が入っていた。しかし実際に爆発物が仕掛けられていたのはリヴァプールから24キロほど離れたウォリントンだった。

土曜の午後、日用品などを買いにきた一般人で賑わう商店街の、イングランドでどこにでもあるタイプの鋳鉄のゴミ箱に入れられた2つの爆発物は、1分ほどの間隔を置いて連続して爆発した。鋳鉄のゴミ箱は破片となって周囲に飛び散った。ベビーシッターに連れられて母の日のカードを買いに来ていた3歳の男の子がその日に、爆発をもろにうけた12歳の男の子が5日後に、死んだ。ほかに54人が負傷し、手足を切断することになった人も多く出た。

爆発の翌日、Provisional IRAが犯行を認める声明を出した。
Responsibility for the tragic and deeply regrettable death and injuries caused in Warrington yesterday lies squarely at the door of those in the British authorities who deliberately failed to act on precise and adequate warnings.

昨日、ウォリントンにおいて発生した悲劇的で非常に残念な死と負傷の責任は、正確で的確な警告に基づいて行動することを意図的に怠った英当局が全面的に負うべきものである。


20キロ以上も離れた大都市に爆発物を仕掛けたとする予告電話と、この犯行声明のことを知らず、IRAを「フリーダム・ファイター」的に位置付け、また「彼らは意図的に一般市民を殺すことはしない」と主張して臆することなく、自身がIRAのプロパガンダにやられているのに、自分で考えているふりをしている連中の予断と無知を、私は蔑む。

それ以上に、「IRA」を蔑む。

その「IRA」に、いわば「新たなIRA」が出現した、と、4月24日(日)のガーディアン/オブザーヴァーが報じている。この記事は、記事がアップされた直後にガーディアンのサイトでトップニュースになっていた、いわば「目玉」的な記事だ。(その数時間後には「イエメンのサレハ大統領がGCC提案を受諾し30日以内に大統領職から退くことに」というでっかいニュースが入ってきたので、2番目に落ちていたが。)



New Irish terror groups are threat to UK, warn police
Mark Townsend and Henry McDonald
guardian.co.uk, Sunday 24 April 2011 02.36 BST
http://www.guardian.co.uk/uk/2011/apr/23/terrorism-threat-uk-northern-ireland

記事の写真は、(すっかり忘れていたがこの3月4日に発生から10年を迎えていた)2001年のロンドンのBBCカーボム事件の現場。2001年9月11日の前で、「テロ」なんて言葉は世間一般ではほとんど使われてなかった時代に、ダイアルアップ接続でアクセスしたBBC Newsのサイトから、Real Playerの短い映像で見た「テロ」。10年以上経過した今も、記事は当時と同じように閲覧できるし、.ramのクリップのリンクも生きてる。下記キャプチャの左下、"real 56k" のところをクリック。7マイル先でも爆音が聞こえたというこの規模の爆発で人的被害は負傷者一人(地下鉄職員だそうだが)というのは、爆弾があるとの連絡を受けて避難した側が、幸いにも安全な逃げ場を確保できたということだろう(BBCのスタッフは建物の裏手に退避した)。



ちなみにガーディアン/オブザーヴァー記事に使われている写真は、爆発のあった翌朝のもので、爆薬を仕掛けられたタクシーについてなどの捜査が進められていると報じる5日付のBBC記事に別角度の写真(遠くからズームで引いたものだろう)がある。

2001年3月のBBCのボムのあと、5月にはロンドンの郵便仕分け所で、8月にはロンドン西部イーリングのパブで(イーリングは当時日本人が多く住んでいたこともあり「またIRAっすね」という話は日本にいる在英経験者の間ではけっこうあった)ボム攻撃があった。米国で911があって、IRA(系武装組織)のメインのスポンサーであった米国でも「テロ」への嫌気が大きくなり、またIRAが常に優先していた「社会全体からの何となくのシンパシー」も薄れた後の11月にも、バーミンガムでボムの計画があった(未遂)。これら一連のボム攻撃を行ったのはReal IRAだった。バーミンガムの未遂事件後、ブリテンとアイルランド両方で逮捕・起訴された計5人は2003年8月に有罪判決を受け(懲役16年から22年)、現在は獄中にあるはずだ。

さて、本題に戻るが、24日のガーディアン/オブザーヴァーの記事で報じられている「新たなアイリッシュ・テロ集団」と、このカーボムをやったReal IRAの関連は私にはよくわからない。

それよりもより的確な参照先は、記事にも言及されているが、1996年ドックランズ爆弾だろう。
http://en.wikipedia.org/wiki/1996_Docklands_bombing

1994年、当時進められていた和平交渉の進展で、8月末にIRAが停戦を宣言した。10月にはロイヤリスト武装組織のアンブレラ・グループも停戦を宣言した。これにより「北アイルランド紛争」は「終結」への大きな一歩を踏み出したのだが、「IRAは武装解除すべき」という点をめぐって案の定膠着。

そして「英国政府(保守党)への不信」(当時はジョン・メイジャー政権)という口実でIRAは「武装闘争」を再開した。それが1996年2月9日、ロンドンのドックランズ爆弾事件。これも破壊の規模はものすごかったが、人的被害は死者2人(立ち入り禁止区域内の商店に施錠しにいった店主ら)、負傷者39人と、その破壊の規模に比べれば信じられないほど少なかった。爆発があったのが午後7時で、ビジネス街である事件現場にはあまり人がいなかったこと(退社時間のあとだった)、情報が(ウォリントンとは違い)正確で、避難誘導も的確だったことなどが要因だ。

オンラインではソースがないかもしれないが(本持ってるからオンラインではあんまり調べてないんだけど)、この爆弾事件を主導したのはProvisional IRAのSouth Armagh BrigadeだったとPeter Taylorの "Brits" などに書かれている。

PIRAは各地域ごとにBrigadeが編成されていた(Brigadeに入らないUnitもあったが)。ウィキペディアを見ると、ベルファストとデリーのほか(太字は引用者による):
County Armagh had three battalions, two very active ones in South Armagh and a less active unit in North Armagh. For this reason the Armagh IRA unit is often referred to as the South Armagh Brigade. Similarly, the Tyrone/Monaghan Brigade, which operated from around the Border of Northern Ireland and the Republic of Ireland, is often called the East Tyrone Brigade. Fermanagh, South Down and North Antrim had units not attached to Brigades. The leadership structure at battalion and company level was the same: each had its own commanding officer, quartermaster, explosives officer and intelligence officer. There was sometimes a training officer or finance officer.


サウス・アーマーについては、例の「Sniper at work」の標識などで知られるが、最も凶悪というか、まあウィキペディアもかなり詳しいしまとまってるので。すごく大雑把に言ってしまうと(だから不正確なのだけど)、Real IRAの重要な部分はこのブリゲード由来だったり。
http://en.wikipedia.org/wiki/Provisional_IRA_South_Armagh_Brigade

イースト・ティローンについては、先日も書いたような気がするけど、参照先は:
http://en.wikipedia.org/wiki/Provisional_IRA_East_Tyrone_Brigade

サウス・アーマにせよ、イースト・ティローンにせよ、重要なのはアイルランドの南と北の間のボーダー地帯を利用できるということだ。ここらへんは、山岳というほど険しくはないが、山に森という区域で、土地を押さえてあればあんなものやこんなものを蓄えておいたりもしやすい。

……という話は、Taylor本などを参照。

0747550077Brits: The War Against the IRA
Peter Taylor
Bloomsbury Publishing PLC 2001-05-21

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※書きかけ

※この記事は

2011年04月24日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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