「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2011年04月06日

【訃報】ジュリアーノ・メール・ハミス

ジェニン自由劇場 (Jenin Freedom Theatre):
http://www.thefreedomtheatre.org/

「ジェニン自由劇場」は、ヨルダン川西岸地区の北部にあるジェニン難民キャンプ(パレスチナでは、何十年も前に、元々住んでいた土地から引き離された人々が一時的に住む予定だった「難民キャンプ」が、事実上「都市」となっている。だから「難民キャンプ」といっても、必要なインフラは整備されていて表面的には「普通の町」のように見える)で、演劇や映画、写真、絵画といった「表現」を通じて、「生きること」を回復しようという取り組みの場である。2006年にここを設立した人々の1人が、映画俳優・映画監督のジュリアーノ・メール・ハミス。1958年、ユダヤ人の母親と、アラブ人(キリスト教徒)の父親の間にナザレスに生まれた彼は、自身のことを(「ハーフ」ではなく)「100パーセント、パレスチナ人であり、100パーセント、ユダヤ人である」と語っていた。

ジェニン自由劇場についての8分ほどのドキュメンタリー(2010年11月アップロード):


2011年4月5日、そのメール・ハミスがジェニンで殺されたと、Twitterで知らされた。劇場のオフィスの前で車に乗っていたところを、通りすがりの車から銃撃され、5発被弾して搬送先の病院で息を引き取った。銃撃者は覆面をかぶっていて、銃撃は正確だった(急所を狙っていた)という。
http://www.maannews.net/eng/ViewDetails.aspx?ID=375522

RT @muiz: JULIANO MER-KHAMIS [2009]: "I am 100 % Palestinian & 100 % Jewish" > http://is.gd/fREkJf | @asa_wire | #Palestine | #Jenin | #FreedomTheatre
posted at 06:10:39

RT @dimireider: On the assassination of Juliano Mer Khamis http://wp.me/pedo5-f7
posted at 06:10:47

パレスチナ、ジェニン自由劇場の中心人物で俳優のジュリアーノ・メル・ハミスが暗殺された。車に乗っているところを、通りがかった別の車の中から、覆面の男1人または2人に銃撃された。 http://is.gd/fREkJf
posted at 06:16:47

先ほどの暗殺の報 http://is.gd/KzJUUE のジュリアノ・メール・ハミスは、母アルナ・メールのジェニンでの子供劇場の活動を記録した映画、「アルナの子どもたち」の監督。08年に朝日新聞の川上泰徳さんが取材したときの文章: http://is.gd/4O49Ka
posted at 06:30:44

RT @RiverDryFilm: RIP Juliano Mer Khamis. Your theatre was a vision of a possible future. We will work to maintain your legacy.
posted at 06:40:00

RT @muiz: ARNA'S CHILDREN > http://is.gd/t1ozAD | MUST-SEE film by Palestinian actor/activist/director, Juliano Mer-Khamis who was assassinated today
posted at 08:08:47

RT @MaxBlumenthal: Remembering Juliano Mer Khamis http://bit.ly/hEFRz6
posted at 13:03:36

RT @Hitteen48: A must-see documentary: "ARNA'S CHILDREN" by Juliano Mer-Khamis جوليانو مير خميس (‎29 May 1958 – 4 April 2011) http://t.co/TayH5R7 #RIP
posted at 19:28:41

「アルナの子どもたち」のジュリアーノ・メール・ハミス暗殺の報by Conal Urquhart in Jerusalem 夫人のお腹に双子が… / Israeli peace activist Juliano Mer Khamis sh… http://htn.to/wQco6J
posted at 22:09:25

ハアレツ報道、ジュリアーノ・メール・ハミス殺害事件容疑者逮捕。元アルアクサのミリタントで、5年前にイスラエルの刑務所から釈放された男。本人は犯行を認めていない。 / Palestinians arrest suspect in murd… http://htn.to/hnADjh
posted at 23:23:24

殺害されたジェニン自由劇場のジュリアーノ・メール・ハミスさんのインタビュー映像 RT @intifada: As the loss of Juliano Mer Khamis is mourned, we share this 2010 video interview with Juliano by Jen Marlowe http://ht.ly/4tEFI
posted at 01:50:35

以上、Twitterでの自分の投稿とRTのまとめ。

最後にRTしている@intifada (Electric Intifada) は、2006年に今の「自由劇場」が立ち上げられたときに記事を立てている。
http://electronicintifada.net/v2/article4514.shtml

このEIの記事に写真で紹介されているのが、ジュリアノ・メール・ハミスのお母さんのアルナ・メールの「子供劇場」の俳優のひとり、ユースフだ。1994年に王様のような服装で舞台に立っていた少年は、2001年、学校にいてイスラエルの攻撃で負傷した10歳の少女の最期を看取るという体験をした1週間後、イスラエルで自爆した。

アルナの活動を追って、息子のジュリアノが監督したドキュメンタリー映画が『アルナの子どもたち』である。
http://www.imdb.com/title/tt0408504/

この映画については2005年の上映会のときの紹介文(岡真理さん)より:
……映画もすばらしかったですが、ジュリアノ監督のお話もまた、ユーモアをまじえながらも、人間の痛みに向き合ってきたなかで紡がれた思想の深さと、彼自身が他者とともに耐えてきた痛みの厚さを感じさせるものでした。

そのなかで、ジュリアノさんがおっしゃった言葉のひとつが深く心に突き刺さりました。

イスラエル社会で、ユダヤ人の母、パレスチナ人の父をもつということは、ナイフで存在を二つに切り裂かれるようなものなのだ…


……

● 映画「アルナの子どもたち」について ●
 イスラエルの平和運動家、女優のアルナ・メル=ハミースは第1次インティファーダのさなかの1989年、イスラエル占領下で公教育が崩壊したパレスチナの子どもたちのために、ジェニン難民キャンプでオルターナティヴな教育プロジェクトを開始、キャンプに泊り込み、子どもたちに勉強だけでなく、絵画やダンスなど自己表現の仕方を教える。

 93年、スウェーデン議会から「もうひとつのノーベル平和賞」を受賞したアルナは、その賞金をもとにキャンプに子ども劇団を設立、息子のジュリアノも活動に加わり、子どもたちの演技指導にあたる。才能あふれ希望に満ちた子どもたちと、ジュリアノやアルナとのあいだに、信頼の絆が結ばれてゆく。閉塞状態と暴カ的な雰囲気の中で成長していた子どもたちは、占領下で日々、体験する怒りや痛み、恐怖を演劇を通して表現することを学ぶ。演劇を通して世界は広がり、子どもたちの夢は膨らむ。

 だが、アルナが亡くなった1996年頃からオスロ合意後の和平ムードが壊れ、イスラエルによるパレスチナの封鎖や攻撃が強まる。ジェニンでの活動も衰退し、子どもたちの劇場は閉鎖、ジュリアノもジェ二ンと疎遠になってしまった。そして、2000年、第2次インティファーダが始まり封鎖も強化される。 

 2002年4月、イスラエル軍はジェニン難民キャンプに大規模な軍事侵攻を行なう。500軒近い民家が被壌され、その跡は更地にされ多くの犠牲者が出た。 ジュリアノはジェニン再訪を決意。外出禁止令が数日間、解除された間隙をぬってジェニンに戻った彼は、そこで、アルナが愛した子どもたちのその後の人生と死を知る。イスラエルの砲弾を受けた少女が自分の腕の中で死んでいった経険から、イスラエルの街で自爆攻撃を行なった者。その親友や弟も、キャンプ防衛隊のメンバーとして戦闘で死んだ。死者たちのポスターがキャンプ中を埋め尽くす。残
った青年達も、ある者は武装組織のリーダーとなり、ある者は救急隊員として武器を取らない道を選択していた。ジュリアノは、こうした青年たちと行動をともにし、インタビューするなかで、選択の余地が無い人生を淡々と生きていく彼らの姿をカメラに収める。

 この作品は占領と圧迫の中で短い人生を燃やした青年たちへのオマージュであり、少年たちの友情の記録である。そして、彼らにはもっと別の人生があったに違いないという苦い思いが込められる。

……


『アルナの子どもたち』の予告編:


なお、6日のMa'an Newsに、暗殺について詳しい記事が出ている。
Shock in Jenin after theater director's murder
06/04/2011 12:19
http://www.maannews.net/eng/ViewDetails.aspx?ID=375860

"I cannot believe it, it's like a nightmare," said Samia Steti, director of programs at the theater, who told AFP she had been speaking to Mer-Khamis just minutes before he was murdered.

"We met at 3:30 for about 15 minutes to prepare for a meeting about 'Alice in Wonderland' but then he left to take his baby son home with the babysitter," she said.

"About two minutes later we heard shooting and everybody started joking that they had killed him," Steti told AFP, saying Mer-Khamis himself had always made a point of joking around that one day he would die in the camp.

Then they went outside and realized what had happened.

「信じられません、まるで悪夢です」と自由劇場のプログラム・ディレクターを勤めるサミア・ステティはAFP通信社に語った。彼女はメール・ハミスが殺される数分前まで彼と話をしていたという。

「3時半から15分ほど、『不思議の国のアリス』の件で打ち合わせの準備をしたのですが、そこでジュリアノはベビーシッターさんと息子さんを家に送っていくために事務所を出て、その2分ほど後、銃声が。みなが、あれまあジュリアノが殺されたんじゃないのと冗談を言っていたのですが」とステティは述べる。メール・ハミス自身が常に、いつか俺はこのキャンプで死ぬだろうなと冗談のネタにしていたのだという。

劇場の人々は外に出て、そして何が起きたのかを知った。

※この記事は

2011年04月06日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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