「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2011年02月14日

エジプト情勢とその報道:2月10日に何があったのか(情報戦) #egyjp

2月10日(木曜日)、「ムバラク退陣へ」の報道が流れた。これは日本のメディアだけではなく、ロイターもCNNも、アルアラビヤもアルジャジーラも(いずれも私は英語版でしか把握できないが)、エジプト国内の新聞(国営系アル=アハラム含む)も、日本でいう「海外メディア」がほぼすべてそういう観測を報じた。普段、各メディアの中で最も慎重な態度をとるBBCも、「最近までNDPの幹部だった人物が、"I hope that he will step down" の形で、『ムバラク退陣』を語った」ということをウェブサイトの一面にしていた(なので見出しは Mubarak 'may step down' となっていた)。

メディアばかりではない。米国では、たまたまそのタイミングで、ミシガン州の大学生相手にスピーチする予定だったバラク・オバマ大統領が、「エジプトではまさに歴史が……」と言及した(「このようなときに時代を動かすのは、みなさんのような若者なのです!」というスピーチだから本質的な言及ではないが)。その前にCIAのパネッタ長官が「どうやら退陣のようですね」という見方を示していた。

この他、あっちもこっちも「どうやら退陣だ」との分析結果を導き出し、数時間後にあると告知された大統領のスピーチを待つ間(これがまた「むばらくお待ち下さい」の状態で押す押す)、アルジャジーラのオンラインのニュースでずっと中継されていたカイロのタハリール広場は既に「祝賀ムード」になっていた。広場ばかりではない。放送されないものも含め、情報を非常に多く得ていると考えられるアルジャジーラのスタジオ(ドーハ)のキャスターも、「お祝い」の方向付けをしていた。現場のレポーターは、「既に起きたこと、今起きていること」を伝え、それらの意味を分析するのが仕事であり、この先どうなるかを観測することはしない、という基本的な姿勢が実に徹底している人たちで、「自分はこう思う」という観測はほとんど口にしなかったけれども、広場の人々がいかに沸き立っているかは伝えていた。

私が見ていた中では、唯一、フォーリン・ポリシーに書いている中東情勢専門家のマーク・リンチが、懐疑論を明示していた。「すべて噂 rumour だ。実際に本人が出てきて本人が語るまで、私は何も信じない」と。

ほかに懐疑的だったかもしれない人は何人かいるが(ジェレミー・スカヒル、ブライアン・ウィテカーなど)、その時間帯の発言がなかったか、私が見ていなかったかでわからない。

ともあれ、マーク・リンチは慎重で、非常に正確な分析をする人だ。以前も書いたが、私はチュニジアの「革命」に至る過程を、積極的にはフォローしていなかった。受動的にしていても情報は入ってきていたが(ウィキリークスのニュースをフォローするためにフォローしていた「アノニマス」系統やEFF関連のフィードやツイートから)、またベラルーシや09年イランのような流血と人権侵害を見るのは耐えられないという理由で、意図的にスルーしていた。事態を動かしていたのは既存左翼組織のようだったし、ならば、最後の最後に最上層部が動いて、「さあ、もう言いたいことは言ったのだから、仕事に戻ろう」とハシゴが外されるのだろう、と。しかし、あの「歴史的な日」となった1月14日、彼は "Go Tunisians go" とTwitterに書いた。「えっ」と思って注視していると、数時間後にはその『瞬間』をTwitterで見ることになった。そのマーク・リンチが、今回、2月10日の「ムバラク退陣へ」のときには「噂である」と、極端に慎重な姿勢だった。

それが私には非常にひっかかっていたのだが、ほかに流れてくる大量の情報は――現場がどうなっているかを報告するジャーナリストが「人々は踊っています」的なことを報告するのは別として――カイロのブロガーや人権活動家筋も、ロイターなどのニュースのヘッドラインのフィードも「退陣へ」だった。

無理もないと思う。何事によらずとりあえず疑うというスタンスの人も、CIAがあのように分析しているとか、米大統領が公的なスピーチであのように言及したとかいったことから判断すれば、「退陣の線で間違いなし」と判断するだろう。

個人的に気になっていたのは、まず英国筋の静かさ。英国筋は今回ずっと「外野」のスタンスを貫いている(エジプトはトラウマだし)し、口を開いても外相も首相もタテマエだけ(「決めるのはエジプトの国民」など)だったが、政府そのものではなく間接的に、ピアソン・グループ(The EconomistとThe Financial Times、特に前者)が2月に入る前に「ムバラクさん、長らくお疲れさまでした」のトーンで記事を書いていた。

それ以上に気になっていたのが、イスラエルの沈黙だ。当初あれだけ話をすり替えようとしていたのに(同胞団脅威論など)、3日にラクダと馬が広場に乱入したあと、特に7日の週に入るころから急に静かになった。その点について、アルジャジーラのニュースでドーハのスタジオと結んでコメントしていたワシントン(米国)の誰か(学者か、元外交官か)が「彼らにとって、沈黙は金」と語っていた。

そしてその「沈黙は金」の背後に何があるか、何がありうるか、というのの実例が示されたのが今回のエジプト動乱なのだが(遠からず、いつもの人たちによって反ユダヤ陰謀論で語られ、消費されることになるのだろうが、そういう系統じゃない人たちの分析を集めておかないとね)、実例が示されているということはわかっても、それが何なのかは外野の素人にはわからないというか、とにかくすごかった。何しろ、あからさまな集団懲罰であるガザ封鎖政策の「中の人」であるオマー・スレイマンが「副大統領」として、いわば堂々と陣頭指揮を取っているような状態での情報戦だ。

稿を改めて書きたいが、「当局に拘束されていたGoogle幹部」として日本では語られているであろう、若者の人権運動(拷問反対)のリーダーの1人であるワエル・ゴニムさんは、身柄解放後、ひどい利用のされ方をした。けっこういろいろ見聞しているはずの私も胸が悪くなるような利用のされ方だった。

10日夜(現地:日本では11日になってから)のムバラクの二度目の演説は、そのような文脈でなされたものである。タハリール広場には大群衆がいて音楽が鳴っていた。アルジャジーラのスタジオは「退陣は既定路線」という方向で構成していた。

しかし、確か1時間以上押して出てきたホスニ・ムバラクがテレビ画面の中で述べたのは、実際には、「私は9月までは続けますよ」という宣言だった。

このとき、マーク・リンチは、「信じがたい」と反応していた。



リンチだけでなく、ほかにも多くの人がそう反応していた。下記の05:55くらいからあと。
http://twilog.org/nofrills/date-110211

このような状態で、恐らくはほぼ確実に誤情報に踊らされての「ムバラク退陣へ」の「誤報」が出て人々の怒りがまた燃え上がった1日後、11日夜(現地:日本では12日午前1時ごろ)、ついに本当に、ムバラクが退陣したのである。






※この記事は

2011年02月14日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 06:31 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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