「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2011年02月14日

「何度、皆殺しのような目にあうんじゃないかと思っただろう。でも、最後に勝利したのは人々の意思だ」 #egyjp

RT @3arabawy: I can't recall how many times we thought we're about to b massacred & our revolution'd be squashed. Still the will of the people prevailed

「何度、皆殺しのような目にあうんじゃないかと思っただろう。何度、僕たちの革命は潰されると思ったことだろう。でも、最後に勝利したのは人々の意思だ」 #egyjp
http://twilog.org/nofrills/date-110212


こう書いているのは、「ソーシャリスト・ジャーナリスト」と自己紹介している人権活動家。ムバラク退陣までの間、何度か、カイロのタハリール広場のテントから電話でアルジャジーラのニュースに出てコメントしていた。彼は13日から14日(日本時間)にかけて、既に「次の段階」の情報発信を淡々と行っている。すなわち、各地で予定されているストライキのこと、並びに労働運動の組織化と、それへの締め付け(ほぼ確実に行なわれる)についての記事紹介など。

日本時間12日早朝、私はオンラインでストリームされているアルジャジーラ(英語版)のニュースに釘付けになっていた。オマー・スレイマンの短いステートメントのあと、アルジャジーラはタハリール広場の人々の歓声を、10分ほどにわたってそのまま、解説などをかぶせずに流していた。

短いけどクリップがアップされている。これが10分続き、解説が少し入り、また5分、ずっと歓声だけ……ということが2時間くらい、続いた。



(思い出すのはテレビ画面の中の「ベルリンの壁」、あの日のブランデンブルク門……私自身、頭の柔らかい、知的好奇心の高い時期にあれを見た世代だ。今の米オバマ政権のブレーンはその世代だし、英キャメロン政権は首相&副首相がその世代だ。)

広場の歓声が届けられている間、私のTweetDeckの画面は、エジプトから、チュニジアから、ガザから、イスラエルから(イスラエルには「隣人との共存共栄」を強く求める人たちがいるということは、日本では低俗な反ユダヤ主義者によって隠蔽されている)、イングランドやウェールズから、北米から、日本から、人権活動家も情勢分析の専門家も、カイロやアレキサンドリアで取材を続けてきた米国や英国のジャーナリストたちも含め、10分で300件以上のペースで人々の「やったね!」という「声 tweet」を流していた。(私がこの昂揚感を伝えたことに対し、「現実はそんなに甘くない」などと言う向きもあるが、それはエジプト人の知性をバカにしすぎである。そんなことは、うちらがいちいち言わなくても、彼らが一番よくわかっている。パトロナイジングな態度で心配してやる必要などない。松木のごとく「こっからですよ、こっから!」と励ますのが俺らの仕事。)

モニタの前で、この15日間以上、毎晩その冷静で肌理細やかな分析で容赦なく知識をインプットしてくれていたアルジャジーラのエイマン・モハルディーン(男性記者。エジプト出身)の、いつもと変わらぬ冷静な報告と解説に感心しつつ感謝し(しかし彼の解説は情報量が多い!エイモン・マッカンかと思った!)、広場脇のホダー姐さん(女性記者。すごいかっこいい)や大統領宮殿前のラゲさん(女性記者。「アレキの眼鏡っ子」)の、さすがに上ずった声でのレポートを聞き、ドーハのスタジオの人(名前控えてない)の、さすがにうれしそうな、まるで「ワールドカップで優勝したかのような」(<この日、何度目にしたかわからない比喩!)ブリティッシュ・アクセントを聞き、Twitter上でこの18日間ですっかり「馴染み」になったような気が一方的にしている人々の「声」を読んで、しばし陶然とした後、新聞を買いに出た。だが、うちの最寄のコンビニは、新聞は朝日と読売と日経とスポーツ新聞だけしか置いてない。駅の売店まで行けば和田さんが書いてる毎日があるのだが、それより「今」を伝えるアルジャジーラを少しでも長く見たかったし、最寄のコンビニで「毎日は……ないっすよね」と聞いて、朝日だけ買って家に戻った。



この日の私のTwitterのログ:
http://twilog.org/nofrills/date-110212

この日のログのまとめ(私以外の方々のツイートが中心):


Global Voices:
http://jp.globalvoicesonline.org/2011/02/11/4550/
※ムバラク辞任を受けてのツイートの翻訳紹介

アルジャジーラのアイマン・モハルディーン:


アイマンの仕事。エジプトの前、チュニジアからのレポート――彼のTwitterの背景画像。(彼自身は、エジプト人のお父さんとパレスチナ人のお母さんの間に生まれ、子供のころに家族で米国に移った。)










※この記事は

2011年02月14日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 06:05 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼