「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2011年02月06日

覚え書き:チュニジアからエジプトへ

#egyjp http://htn.to/sdgbXD エジプト国民として、また人権擁護の立場から、私達は1月25日以来、タフリール広場をはじめとする路上に出て、全てのエジプト人の自由と尊厳を要求している。私達の望みは唯一つ、ムバラク時代が一刻も早く終わることである。
http://twitter.com/chitama/status/34080742052986881

これは、5日に「読め」と何度も回ってきた記事の和訳(Chitamaさんによる)の一部。馬とラクダのクラックダウンで、それまでは何となくお祭り気分で参加していたような人も「よくも殴りやがったな」など「ムバラクに対する個人的恨み」を抱くようになり、それが「あいつだけはガマンならん!」という怒りになっているとの報告が4日から5日は相次いでいた。

さて。ほとんど全部Twitterに書いているのだが、少しはまとまった文を書いておかないと……。

エジプトで「これ」が始まった1月25日(だからTwitterでのハッシュタグは #Jan25 なのです)は、既にチュニジアで大統領が逃げて10日が経過していた。

そのころ、チュニジアの「革命」(もう「蜂起」と呼ばなくていいよね)のきっかけとなった露天商のモハメド・ブアジジさん(子供のころから警察による嫌がらせを恒常的に受けてきたというので、目をつけられていたのだろう)のように、「国家権力に対する抗議」で焼身自殺をはかる人が、北アフリカのいくつもの国で、多発していた。昨日はモーリタニア、今日はアルジェリア(アルジェリアはけっこう大きな動きになっていたっぽかったけど、どうなったのかな……心配だ)、という感じだった。Twitterを使っている在外アラブ人のジャーナリストかブロガーの誰かが「何なのこの連続は」というようなことを書いていた。アラブの英語メディアのどこかからは、どなたかが「焼身自殺は神の教えにそむく」とするファトワを発したというヘッドラインが流れてきた。

そう、エジプトでは1月に入ってから、ブアジジさんのような「抗議の焼身自殺」が連続していた(→死者の記録のためのサイト、1000memories.comには、それら焼身自殺者も掲示されている)。メディアは、ほとんど伝えなかった。私は日常基本的にBBC Newsのサイトとガーディアンのサイトを見ているが、「エジプト」の名前は、「チュニジアに関するニュース」にカテゴライズされている記事で、meanwhile的な扱いで「今日も焼身自殺がどこそこで発生しました。これまではこことそことあちらで発生しています」と書き添えられている中に出てきているのを見たくらいで、それ以上の何かがあったという覚えはない。

なお、チュニジアだって、1月14日にああなる前は、欧州北部にとっては「手軽にいける南国のリゾート地」でしかなく、1月上旬に入院していたブアジジさんが亡くなったあともリゾートホテル特集記事が出たりしていたそうだ。14日にチャンネル4のディレクターが現地入りしたときの飛行機には、イングランドから、ゴルフ旅行の一行が乗り込んでいたという(外務省が渡航延期勧告を出していなかったので、キャンセルすると旅行代金が戻ってこない)。

さて、1月25日(火)は、エジプトでは「警察の日」という休日だったのだが、何年もかけてオンラインで繋がってきたエジプトの民主化勢力(そう、「民主化勢力」)は、この日に一斉行動を予定していた。彼らはインテリやコンピュータ関係の技術者たちが核。在外の人もいれば国内で活動してきた人もいて、私はTwitterでチュニジアのハッシュタグ経由でその予定を聞いていた(1月15日には既に知ってたと思う)。

彼らは一枚岩ではないし、リーダーがいるわけではないが、いくつかの組織が一緒にやっていて、代表的な組織のひとつに「4月6日」というグループがいる。彼らについては、「April 6 Egypt」とかのワードで検索すればいろいろわかるが、基本的には「ブロガー」だ。ほか、警察に拷問されて殺された青年、ハレド・サイードさん(彼の殴打されまくって変形した顔のご遺体の写真は、本当にむごたらしく本当に残忍な写真で、私でも正視できなかった)をきっかけに集まった人々もいる。昔から人権分野で活動している人もいる。

……ああ、今書いてて、これは中国は情報遮断したいよね、と思った。ムダだと思うけど。(ちなみに私のこのブログは、BBC, BBCと連発しているせいか、何年も前から中国ではブロックされているらしい。)

閑話休題。

ほんで、1月25日は大きなメディアが誰も取材に来ていない、「あのアルジャジーラでさえいない」ということで、私のTwitterのタイムラインはざわざわしていた。現地の弁護士さんや学者さん、在外エジプト人だけではなく、米Foreign Policy誌の人たちが、「ジャジーラがいないのは何か裏を感じさせるな」といった会話をしていた。

その「意味」は、私は深くはわかっていなかったのだが、4日の晩遅くはっきりとわかった。ビルマについての熱心な取材を行なっておられるカメラマン(フォトグラファー)の冨田きよむさんが、東京とカイロをSkypeで結んで、カイロのホテルにいる日本人カメラマンのYさん、Kさんらに現地の情勢を聞き、Ustreamでそのまま流す、というすごい企画があったのだが、そこで「カメラマン同士の雑談」のようにして「アルジャジーラは本当にすごい、韓国での大災害のときも韓国KBSより先にヘリ出してた」という話が出ていた。

東アジアの災害でそれほど機敏に動けるアルジャジーラが、アラブの「いつものインテリ連中」(西洋の文脈では「リベラル」、「左派」ともいう)の「運動」に際しては当初、動こうとしなかった。それは事実だ。そのことに何か事情があったのかどうかはわからない。というか、今となってはそんなことを吹き飛ばしてしまうほどのオトコマエっぷりなので、1月25日に彼らはそこにいなかったということを、人は忘れてしまうだろう。私も忘れそうだ。

1月25日のデモは、複数のオーガナイザーが携帯電話(スマートフォンだろうが)や、あるいはもっとしっかりしたビデオカメラでUstreamで中継していた。

このデモは、私が特に何もしなくても目に入ってくるTwitterの日本語圏で話題になっていて、1つのカメラが落ちたら別のが動いてるよ、という感じで誰かがツイートし、それをたどって次々と見ていた。チュニジアの「何かあったらすぐに映像をFBにアップして広める時代」(これは09年イランと非常によく似ていた)の次にいきなり来た、「革命が中継される時代」に驚嘆しながら。

で、このデモ、言葉がわからないので外しているかもしれないが、印象としてはまるでサッカーの代表戦のサポさんたちのような感じ。つまり政治色がない。人々が持ってるのはエジプトの国旗で、「政治的」なメッセージのプラカードなどではない。警察はライオット・ギアで大人数で出ていたが、数で群集に圧倒されていた。何度か、群集が警察を包囲してどきどきする場面があったが、そこで始まったのは暴力ではなく、歌だった(たぶんエジプト国歌)。最前線にでていくのはいかにも「サッカーのサポ」さんのような年格好の男性たちがほとんどだったが、前の方に行く群集の中にはスカーフを着けた女子もいた(わかるわー、ああいう「前の方に行っちゃう女子」)。スカーフのない女子ももちろん。「女子」と呼ぶには明らかにあまりにベテランの女性もいた。よちよち歩きの子供連れの人もいた。

そしてデモが終わったあと、「警察の日」という祝日(休日)なのに出勤で、しかもこんなにものすごい迫力なのに徹底的に完全非暴力のデモを最前列で目の当たりにして、警察のみなさんにおかれては、「仕事、やめたいな……」の決定的な体験になってもおかしくはない、という指摘が、民主化運動筋や中東情勢専門家筋から出ていた。(そういうところを見るのか、というのでこれは勉強になった。)

この1月25日のデモで、人々の目的地となったのが、今話題の「タハリール広場(解放広場)」である。私が見ていたカメラでは、「10月6日橋から広場に入る」様子を生中継していた。(私はそれで、カイロの市内地図を検索して見ていた。)広場手前では、警察の放水車がやってきて、「(鎮圧が)始まったか!」と思ったが、ニ三度軽く放水して道をあけさせ、単に通り過ぎていった。(これには「へ?」と思わされた。)

そしてこの日は特に大きなことにはならずに、広場に集まった人々は「ムバラクやめろー」、「やめろー」と声を上げた、という感じで解散し、一部が(といってもかなりの大人数が)広場に留まって一晩中「ムバラクやめろー」を繰り返す、ということになった。

このときに、広場を眺める建物の上からの定点観測カメラが導入された。夜通し中継だ。このカメラからの音を録音してアップしてあるので(聞いてたら感動したので録音してみた)、映像見てないかたはどうぞ。

10秒: http://audioboo.fm/boos/262164-10-seconds-of-egyelection-demo-25-jan-2011-jan25
1分42秒: http://audioboo.fm/boos/262187-1-min-42-secs-of-egyelection-demo-25-jan-2011-jan25
3分35秒: http://audioboo.fm/boos/262357-3-min-35-secs-of-egyelection-demo-25-jan-2011-jan25

この定点観測カメラ(見る人が見れば場所が特定できるような映像で、極めて危険なことだった)は数時間で映像が途切れた。その前に、催涙ガス・ゴム皮膜弾(「ゴム弾」。金属の銃弾にゴムの皮膜をかぶせ、貫通する能力を減じた弾丸であって、ゴムでできているわけではない)などが投入された。パソコンのスピーカーから、ライヴで「銃声」や「爆発音」が聞こえてきた。「チャット」で「今の音は何?」、「催涙弾だと思う」といったやり取りがされていた。まったく信じがたいことだった。

そしてその夜、広場のドンパチ音があまりに賑やかだったし、ひょっとしてひどいことになるのではと心配だったが、「広場にはもう誰もいない」という報告は入っても、ひどいことになったという報告は入らなかった。少なくとも、カイロからは。

このとき既に、スエズではかなりなことになっていたようだ。(スエズはその後、軍が街を包囲している状態になった。2004年11月のファルージャからも何とか伝え続けたあのアルジャジーラでさえ撤退を余儀なくされ、密室化している。)

その次に大きなデモが行なわれたのが、1月28日(金)、イスラム教の金曜礼拝の日。Day of Rageと呼ばれた日だ。

その時期の「歌う女の子」の映像(ショッキング・ピンクのスカーフの若い女の子が、ライオット・ギアの警官の壁に超接近して歌っていた)は、はてなブックマークのトップページの「話題の映像」のところにもあったので、きっとかなり大勢の人が見ていたのだと思う。

あとはちょっと、今書いている時間的余裕がないので飛ばすけど、この1月25日、28日、そして30日と、いつ「血の日曜日」になるかとはらはらして――つまり、警察が退いた局面で軍に「鎮圧」の命令が出るのではないかとはらはらして――見ていたのだが、そうはならなかった。その代わり、民衆から退陣を要求されているホスニ・ムバラク大統領が「今まで置いたことのない副大統領を置く」、「内閣解散」(でも直後に任命された内閣は1人を除いて同じ)、「9月に予定されている次の大統領選挙には立候補しない旨の表明」、「密かに後継者にしようと画策していた息子、ガマル・ムバラクの件を諦める」など、若干の後退を余儀なくされた。(その「後退」の幅や性質については、米英の濃い筋で濃い議論がなされているが、政府レベルでの反応ということになると、英欧はトロい米国を置いて先に進んでいるという印象。)

この「後退」のマイルストーンとなったのが、○日(←もう覚えてないw)のムバラクの演説だ。「私は長年大統領をやってきて、正直、うんざりしている。もう私は退いてもいいだろう、とも思っている。しかし私が退いたら、この国はどうなってしまうのか。この国ではムスリム同胞団が影で跋扈しているのだ。カオスになる」云々。

サダトの暗殺(サダトを殺したのは同胞団じゃないほうのイスラミストの組織だったけど)という「国のトラウマ」を、自分の権力維持のために、臆面もなく利用する。そしてそのことを「西洋はわが国の文化を理解していない」と言う。

(まるでロシアのプーチン。「わが国には強権的指導者が絶対的に必要なのだ、そういう文化だ、イヴァン雷帝だ」という。それでジャーナリストや人権組織を狙いうちにして殺してもいいという。しかし今回、ロシアがエジプトに対して「国民の自由を尊重すべき」とかいう方向で何か言ってるとか、どこのブラックジョークだ……比較論じゃないけど、ロシアのほうがよほどえぐいことをしている。「イスラミストという脅威」という設定も同じだ。)(ついでに言うと、今回世界同時多発「おまえが言うな」は、ロシアのこれ、イランの類似の言説、それから「自分が権力を維持するためには法律だって変えちゃうよ、法律家はみんな左翼」のイタリアの殿。中国は検索ワードで「チュニジア」、「エジプト」をブロックしているという。)

※ムバラク演説について、私は「悲劇のヒロイン」カードと思ったのだが、こういう「私は本当はいやなんだけど、状況からやむなく」メソッドは笑いごとではない。「デモクラティックでジューイッシュな国」は「本当はいやなんだけど、そうしないと滅ぼされるので」の無制限適用でガザ封鎖、不法入植地建設、分離壁建設などを行なっているし、パキスタンへの越境攻撃を続ける米軍もその論法を取っている。もうちょっと腹黒い西ヨーロッパのあの島国(+隣の島の一部)は「私は本当はいやなんだけど、状況からやむなく」の場合は、自分は動かない。1953年、テヘランで……おっと、時間のようだ。



なお、民衆蜂起の武力弾圧といえば、最近ではベラルーシの選挙後の、反大統領派潰しがあった(あれは、本当にひどかった。少ししか見ていなかったけど、あまりに残忍な「現状維持」の自己目的化。「ネットメディア」についての論考と発言で知られるエフゲニー・モロゾフの悲観論の背景は、彼の祖国であるベラルーシの状況だ。この選挙のとき、彼はベラルーシにいて情勢を見ていたようだ)。

今、世界の関心がチュニジアとエジプトに向かったのでほっとしているといわれるコートジボワールもある。(大統領選挙での強引な勝利・勝利宣言と、野党弾圧)

その前で大きかったのは09年のギニア(スタジアムでの野党集会に、軍が発砲、150人以上が一度に死亡)。

そして09年のイラン。なお、イランは軍(徴兵制)は本当に見てるだけ(&戦車のようなでっかいものを持ってくるだけ)に等しい役割で、群集コントロールは内務省筋だった(警察、秘密警察、そしてイデオロギーで動く民兵のような「バシジ」)。

※この記事は

2011年02月06日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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