「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2011年01月30日

1月30日、デリー。「私たちの体験」を「歴史」にする、ということ。

毎年のことだが1月30日である。今年は1972年と同じ、日曜日である。午後、ブラウザのなかに流れてきていた複数のツイートは、今日もまた「ブラッディ・サンデー」になるかもしれない、ということを、エジプトから伝えていた。下記はそのひとつ(09年イランのときに日報をまとめてくれていた「ナイトアウル」さんのtweet)。現状(23:55)、エジプトは……少なくともカイロは、そうなるような感じではない。アレキサンドリアもそういう情報はないと思う。スエズは密室化した。



さて。

日曜日だから、ベルファスト・テレグラフは基本的にお休みだ。それについての記事はトップページには見当たらない。(日本時間午後)

デリー・ジャーナルも静かだ。



日本時間で昼間、ブラッディ・サンデーに関する記事がないかどうかを見に行ったベルテレさんで、代わりに、ロバート・フィスクがエジプトの「ムバラク追放運動」について書いた記事を見つけた。この記事ページの右側にある「コラムニストの最新記事一覧」に出ているエイモン・マッカンの記事は26日付で、世界各地の「民主化」についての文章で、私が読んだこのブレのない左派の書き手の文章の中でも最もすばらしいものの一つに数えられるだろう。しかし、1972年1月30日については、まったく触れられていない。

エイモン・マッカンはあのデモを組織したNICRA (Northern Ireland Civil Rights Association) の主要メンバーだ。当時のプロテスタント独占の北アイルランド自治政府によるアパルトヘイト的な政策に対し、「1人1票の原則」、「宗派による社会的差別の撤廃」などの「公民権」を求め、また1971年夏に北アイルランド自治政府が(英国政府の反対を押し切って)導入した「インターンメント」(“怪しい”者は何かをする前に、予防的に捕まえて一ヶ所に収容しておく、という民主主義国とは思えぬ政策。ここで捕えられた人々に「拷問の実験」が行なわれた)の撤廃を求める、という彼らの運動は、「北アイルランド紛争」において中心的なものだった。

NICRAは宗派の別にはよらず、公民権を求めて市民がともに立ち上がろうという組織で、1910年代以降のアイルランド独立運動(カトリック)と北アイルランドの分離運動(プロテスタント)以降の宗派の別を前提とした運動とは異なっていた。(といっても、1968年または69年までは、NIの社会は言われているほど分断されていたわけではなく、カトリックとプロテスタントの間の結婚も珍しくはなかった。)ポール・グリーングラスの映画『ブラディ・サンデー』で「主役」のアイヴァン・クーパー議員(ジェイムズ・ネスビット)はプロテスタントだ。撃たれて死んだ少年たちのひとり、ジェリーは、本人はカトリックだが付き合ってた女の子はプロテスタントだった。

ともあれ。

エイモン・マッカンは何があっても絶対にブレないガチの左翼のすごいオヤジだが、1972年1月30日の「真実」を――「連中は武装しており、英軍を襲撃してきたので、英軍は反撃したのである」という英軍の嘘を覆すことを――求める活動の中心的存在でもあった。地道な調査を続け、北アイルランドの外にも響くその声(彼はソーシャリスト・ワーカーなど、わりと読者の多い媒体に書く場をたくさん持っている)で、「英軍の不正と欺瞞」を訴え続けた。

そして、ブレア政権下で北アイルランド和平合意(グッドフライデー合意)が結ばれ、ドン・マランという「あの日のデリー」を経験した人が偶然にも聞きとり調査の記録を発見した(この記録が後に映画『ブラディ・サンデー』となる)こともあり、事件から25年以上が経過してようやく、英国政府の正式なインクワイアリ(真相究明委員会)が設置された。

このインクワイアリが、昨年6月に最終報告書を出した「サヴィル委員会」である。

サヴィル委員会の報告書については、既にこのブログでかなりたっぷり書いているのでそれをご参照いただきたい。(私はこれを書いている今も、エジプト情勢をアルジャジーラのオンライン・ストリーム放送で追っている。)

最終的に、この報告書では、「英国政府の組織的な真相隠蔽工作やその指示はなかった」と結論づけられた。その…書きかけ

※この記事は

2011年01月30日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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