さて。
日曜日だから、ベルファスト・テレグラフは基本的にお休みだ。それについての記事はトップページには見当たらない。(日本時間午後)
デリー・ジャーナルも静かだ。
日本時間で昼間、ブラッディ・サンデーに関する記事がないかどうかを見に行ったベルテレさんで、代わりに、ロバート・フィスクがエジプトの「ムバラク追放運動」について書いた記事を見つけた。この記事ページの右側にある「コラムニストの最新記事一覧」に出ているエイモン・マッカンの記事は26日付で、世界各地の「民主化」についての文章で、私が読んだこのブレのない左派の書き手の文章の中でも最もすばらしいものの一つに数えられるだろう。しかし、1972年1月30日については、まったく触れられていない。
エイモン・マッカンはあのデモを組織したNICRA (Northern Ireland Civil Rights Association) の主要メンバーだ。当時のプロテスタント独占の北アイルランド自治政府によるアパルトヘイト的な政策に対し、「1人1票の原則」、「宗派による社会的差別の撤廃」などの「公民権」を求め、また1971年夏に北アイルランド自治政府が(英国政府の反対を押し切って)導入した「インターンメント」(“怪しい”者は何かをする前に、予防的に捕まえて一ヶ所に収容しておく、という民主主義国とは思えぬ政策。ここで捕えられた人々に「拷問の実験」が行なわれた)の撤廃を求める、という彼らの運動は、「北アイルランド紛争」において中心的なものだった。
NICRAは宗派の別にはよらず、公民権を求めて市民がともに立ち上がろうという組織で、1910年代以降のアイルランド独立運動(カトリック)と北アイルランドの分離運動(プロテスタント)以降の宗派の別を前提とした運動とは異なっていた。(といっても、1968年または69年までは、NIの社会は言われているほど分断されていたわけではなく、カトリックとプロテスタントの間の結婚も珍しくはなかった。)ポール・グリーングラスの映画『ブラディ・サンデー』で「主役」のアイヴァン・クーパー議員(ジェイムズ・ネスビット)はプロテスタントだ。撃たれて死んだ少年たちのひとり、ジェリーは、本人はカトリックだが付き合ってた女の子はプロテスタントだった。
ともあれ。
エイモン・マッカンは何があっても絶対にブレないガチの左翼のすごいオヤジだが、1972年1月30日の「真実」を――「連中は武装しており、英軍を襲撃してきたので、英軍は反撃したのである」という英軍の嘘を覆すことを――求める活動の中心的存在でもあった。地道な調査を続け、北アイルランドの外にも響くその声(彼はソーシャリスト・ワーカーなど、わりと読者の多い媒体に書く場をたくさん持っている)で、「英軍の不正と欺瞞」を訴え続けた。
そして、ブレア政権下で北アイルランド和平合意(グッドフライデー合意)が結ばれ、ドン・マランという「あの日のデリー」を経験した人が偶然にも聞きとり調査の記録を発見した(この記録が後に映画『ブラディ・サンデー』となる)こともあり、事件から25年以上が経過してようやく、英国政府の正式なインクワイアリ(真相究明委員会)が設置された。
このインクワイアリが、昨年6月に最終報告書を出した「サヴィル委員会」である。
サヴィル委員会の報告書については、既にこのブログでかなりたっぷり書いているのでそれをご参照いただきたい。(私はこれを書いている今も、エジプト情勢をアルジャジーラのオンライン・ストリーム放送で追っている。)
最終的に、この報告書では、「英国政府の組織的な真相隠蔽工作やその指示はなかった」と結論づけられた。その…書きかけ
※この記事は
2011年01月30日
にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。
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