「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2011年01月10日

今年は1972年と同じく1月30日が日曜日である。そして「血の日曜日」は1972年のデリー以外にも起きる。今も。リアルタイムで。

自分の中で、2010年6月16日に止まったはずの、"how long must we sing this song?" の how long が、再度ぐるぐるし始める。気づいていなかったのだが、今年は1月30日が日曜日だ……その件はエントリ末尾で。

まずは本題から。


翻訳RT http://bit.ly/gSyN0T @ifikra: ほとんどの人には関心の対象外だろうが、昨日チュニジアで、26人の非武装のデモ参加者が死亡した。 via @RFI_Francais http://rfi.my/fZx8AK #sidibouzid
http://twitter.com/#!/nofrills/status/24183984753737728


Operation Tunisia [by Anon]今回チュニジアの情勢がひどくなったのは、年が変わる頃だったと思う。その前から「反体制」の動きの盛り上がりはあった――ウィキリークスの今のCablegateが始まってすぐ、真っ先にトンがった感じの話が聞こえてきた「情報統制国家」は、シリアやエジプトやベラルーシではなく、チュニジアだった。以前からネットで活動していた人々が独自にTunileaksという取り組みを開始し、ウィキリークスでリークされた米公電のうち、チュニジアに関する情報(特に汚職、支配層の腐敗)をオンラインで提供した(それというのも、チュニジア政府がWikileaksのサイトなど、リークされた公電が掲載されている外国のサイトをブロックするからだが)。そういった取り組みに対しては、当然というべきか、政府の圧力・弾圧があった。また、経済的に厳しい状態が続く同国では、それがなくても人々の不満が高まっていたとも。

12月半ばには、中部のSidi Bou Zidという町で、政府による非常に理不尽な扱いに絶望した1人の男性が抗議の焼身自殺をはかるということがあった。どんどん緊張が高まる中、年明けすぐに「アノニマス」さんたち(最近では、ウィキリークスを締め出したPayPalやMasterCardへのDDoS攻撃で知られるが、元々情報の隠蔽や不正な情報操作に抗議する活動をしてきた人たち)が「オペレーション・チュニジア Operation Tunisia #OpTunisia」を立ち上げた。

2009年のイランの選挙後の動乱のときに、内容・即時性ともに最も的確な情報提供をしていたサイトのひとつ、EA(中の人は在英米国人の中東研究者)は、土曜日の段階で少なくとも9人死亡という見出しのライヴ・ブログの記事(9日付)で、確認が完全には取れない現地情報として、次のように書いている。

1945 GMT: Radio Kalima is claiming more than 50 people died on Saturday night and Sunday morning: 16 in Thala, 22 in the Kasserine region, 2 in Meknassi, 1 in Feriana, and 8 in Reguab.

The site claims special forces and militia used live ammunition and also fired on funeral processions and burial ceremonies.

大意:
1945 GMT: Radio Kalimaが伝えるところによると、土曜の夜から日曜の朝の段階で50人以上が死亡しているという。内訳は、Thalaで16人、Kasserine地域で22人、Meknassiで2人、Ferinaで1人、Reguabで8人。Radio Kalimaのサイトでは、特殊部隊と民兵が実弾を使い、また、葬列・埋葬の儀式にも発砲したとしている。


サンデー・ブラッディ・サンデー。

いつまで歌わなければならないのか、この歌を。



国家による民衆に対するテロ(白色テロ)を告発しつつ、「銃を取れとの呼びかけには自分は応じない」と断言するこの曲は、究極的には「反戦」(たたかわないという選択)の歌である。

この曲と、そのほか何曲かのすぐれたシングルで、この美声のアイルランド人をフロントに据えたダブリンの新参のバンドは世界的な存在になるのだが、そうして成功した彼らが全米ツアーをしているときに起きたのが、IRAによるテロ(エニスキレン爆弾事件)だった。戦没者追悼の日に軍関係者が行なうパレードを狙ったはずの爆弾は、タイミングがずれて標的とは関係のない、単なる見物人を吹き飛ばし、瓦礫の下に埋めた。(たとえ標的をはずさなかったとしても、そのパレードは退役軍人とかのパレードであり、IRAの掲げる「反英軍」とはほとんど関係がなかったのだが。)

その日、美声のアイルランド人はステージで、「アイルランドに行ったこともないアメリカ人が美しい物語を信じて爆弾とか銃とかでの戦いを支援している」、「革命とか眠たいこといってんじゃねぇ Fuck the revolution」と怒りをぶちまけ、「これは反乱の歌ではない This is not a rebel song」と宣言してから、この曲を始めた。

しかし実際には、この曲は、「敵の敵は味方」の論理が支配していたあの紛争の時代にあって、(アイルランド人が)「英軍の無差別発砲を非難」=「IRA支持」という受け取られ方もしていた。

そういった紆余曲折もありつつ、バンドはすっかり成功して美声のアイルランド人はすっかり「美徳の人」気取りで、今では私は顔写真を見るだけでうんざりするようになっているが、そんな二十数年を飲み込んで、1972年1月30日から39年という時間が過ぎようとしている。

その39年目の1月30日が、1972年と同じ日曜日なのだということに気づいたのは、カレンダーを見たからではない(風邪で寝込んでいる間にもカレンダーは何度か見ているが、気づいていなかった)。

9日の夕方、ジャーナリストの@udashanさんがこうtweetしていらした。
ウィキリークスのジュリアン・アサンジュ氏を伝える記事を見て、気になったのは彼よりも後ろに映っているDon McCullinドン・マッカリン)による有名な写真だな。もしかしてここは英国の外国人特派員協会(?)だろうか。http://jp.wsj.com/US/node_85798/
http://twitter.com/#!/udashan/status/24025245228736512


その写真は、7月の「アフガン戦争ログ」公開時の記者会見でのもので、あちこちの記事に掲載されているものだが、その会見はFrontline Clubで行なわれている(このクラブを運営しているお金持ちで元軍人のヴォーン氏が、現在ジュリアン・アサンジの身元引受人&居所提供者となっている)。私の返信(140字制限ゆえ、ぎこちない文):
Frontline Clubでの記者会見での写真です。独立ジャーナリズムの為の場 http://frontlineclub.com/ RT @udashan: …もしかしてここは英国の外国人特派員協会(?)だろうか。http://jp.wsj.com/US/node_85798/
http://twitter.com/#!/nofrills/status/24033378344898560


この返信を書くときに、Frontline Clubのサイトを見てみたら、「1月30日(日)はマーゴ・ハーキンの『デリー・ダイアリー』上映&監督Q&A」というスケジュールがあって、それで「今年の1月30日が日曜日」ということに気づいたのだ。

マーゴ・ハーキンの『デリー・ダイアリー』というドキュメンタリー作品については、この映画が東京で上映されたときのエントリを参照:

2008年02月12日 マーゴ・ハーキン、『デリー・ダイアリー』(NI映画祭)を見て、当時の報道を見る
http://nofrills.seesaa.net/article/83761873.html

マーゴ・ハーキンは、このときのトークで、いわば「尻切れトンボ」状態になっているこの記録映画について「サヴィル報告書が出たらさらに追加する」と述べていた。

一方、今年1月30日のFrontline Clubの上映告知では「2010」のクレジットになっている。

ということは追加版だろう。2009年6月16日のサヴィル報告書公表・被害者全員の無実の立証と首相の公的な謝罪を、デリーというあの美しい都市がどのように迎えたかを含めた完成版だろう。

いや、あの血のにじむような「待たされる」日々、英軍&政府の不誠実さと向かい合う日々(そして「日々」は「歳月」になる)の結末は、あの6月16日で本当に「ハッピーエンド」だったのだろうか。

6月16日以降、ほとんど誰も正面からは問うていないこと――「ブラディ・サンデー事件後の英軍のデタラメな調査などについて、英国の国家としての関与は一切認められない」という結論――について、デリーがどう向かい合っているか、というものすごくハードな問いに、マーゴ・ハーキンは向き合って、そしてうちら外部の者に何かを伝えてくれているに違いない。

できれば私がその場にいたいところだが、行けるわけもない。誰か行ってレポートしてください。。。


※この記事は

2011年01月10日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 07:59 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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