「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2011年01月01日

イラン、映画作家のジャファール・パナヒに対する不当判決に抗議する声明(翻訳)

「いいじゃん、見せてくれたって」
「ダメなもんはダメだ!」

2007年秋、日本であるイラン映画が公開された。「女がサッカー観戦など、とんでもない」というかの地の「習慣」に抗して、男のふりをして代表戦を見に行く女子が主人公。何とかスタジアムにたどり着いたものの、女だということがバレてあえなく連行。そして自分と同じように男装して観戦を試みて失敗した女子数名と一緒に、スタジアムの外側のスペースで、鉄柵に囲まれ、兵士に見張られて、中から聞こえてくるどよめきだけを頼りに観戦(?)する……邦題『オフサイド・ガールズ』(英題はOffside)。

実際にワールドカップ予選(イラン対バーレーン)の試合が行われたときのテヘランのスタジアム(の外側)で撮影されたこの映画は(日本でのロードショー当時のパンフレットによると、この可愛らしい「女子パワー」の映画でも撮影は大変だったそうだが)、イラン国内では上映禁止だ。

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映画の作者はジャファール・パナヒ。1960年生まれ。テヘランの映画テレビ大学で演出を学び、アッバス・キアロスタミ監督の『オリーブの林を抜けて』(94年)で助監督。長編デビュー作は95年の『白い風船』で、これがカンヌ国際映画祭カメラ・ドール賞など、国際的に高く評価された。以後、97年『鏡』、2000年『チャドルと生きる』、03年『クリムゾン・ゴールド』、06年『オフサイド・ガールズ』。(以上、映画パンフレットに基づく。)

10日ほど前、パナヒはイラン当局によって、「懲役6年、映画制作禁止20年、メディア取材禁止20年、出国禁止20年」などの刑を言い渡された。本人は控訴しているようだが、才能と技量と実績のある50歳という年齢の映画作家に対しこの判決は、「朽ち果てろ」と言っているに等しい。ハミド・ダバシは「最も脂の乗った年齢の作家に対してこの判決は、バーミヤンの石仏を吹き飛ばす以上の愚行」と激怒している。

むろん、激怒しているのはハミド・ダバシだけではない。

以下は、ipetitions.comにアップされている請願文の日本語訳である。ペティションのスポンサー(主)はカンヌ国際映画祭、カイエ・ドゥ・シネマなどフランスの映画関係機関。

映画監督のジャファール・パナヒは獄に戻されてはならない。

映画監督のジャファール・パナヒに対し、テヘランの(イラン・)イスラム共和国法廷が重罰を科す判決をくだしたことに、大きな憤りと懸念を覚える。

判決内容は以下の通りである――禁錮6年(刑期短縮なし)に加え、今後20年にわたって映画制作および脚本執筆を禁止、メディアのインタビューに応じることを禁止、出国禁止、また外国の文化機関との接触を禁止。

もう1人の映画作家、モハマド・ラスロフも、同様に禁錮6年を言い渡された。イランでは、投獄され出口のない苦しみを味わわされ、ただ朽ちていく囚人たちが多くいる。彼らの中にはハンストを行なっている者もいる。健康状態がひどい者もいる。今、ジャファール・パナヒとモハマド・ラスロフもそこに加わろうとしているのである。

イラン政府がジャファール・パナヒに対しこのような責めを負わせる理由は何か。それは、パナヒが祖国に対し陰謀を企て、イランの統治体制に敵対的なキャンペーンを行なった、というものである。

ジャファール・パナヒは何ら罪を犯していない。彼の唯一の犯罪は、イランで映画作家としての自身の職能を自由にいかし続けていこうとしたことだけである。この数ヶ月間、イラン政府はパナヒを沈黙させるために閉じ込め、一方で彼を叩きのめすために戦争機械に他ならないものを作動させてきたのである。

ジャファール・パナヒは高名な映画作家であり、その作品は世界中で親しまれている。世界三大映画祭(カンヌ、ヴェネツィア、ベルリン)にも招待されたというのに、彼は現在、映画作家としての仕事を続けていくことを妨げられている。パナヒに対する重い判決は、映画作家としての仕事を追求することを物理的にもモラル的にも妨げ、彼の自由を奪うものである。今後、パナヒは沈黙を余儀なくされ、イラン国内および世界各地の映画作家との接触は一切絶たなければならなくなる。

ジャファール・パナヒに科されるこの判決は、明白に、標的とされるのはイラン映画すべてであると語っている。

この判決は我々に不快感を覚えさせ、またあきれ返らせるものである。ここに我々は、すべての映画作家、俳優、脚本家、プロデューサーなど映画に関わる仕事をしている人々、また自由を愛し人権は基本的最重要なものと考えるすべての人々に対し、この判決の撤回を求める我々の動きに加わるよう要請するものである。


請願文に賛同する場合、ipetitions.comのページを一番下までスクロールしたところにあるフォームに、名前とメールアドレスを半角英字で書き込んで "SIGN!" のボタンをクリック。何かコメントを残したければ「コメント」欄に記入。オンラインで署名者として名前を表示させたくなければ、コメント欄の下にある「オプション」の "Show my name in the online signature list" のチェックを外す。(なお、SIGNのボタンをクリックしたあとに表示されるのは、ipetitionsというサイトの運営費の寄付の要請。この署名そのものとは関係ない。)

なぜパナヒが、表現の自由を奪われるというこのような不当な判決を受けることになったか。判決について伝えるBBCの記事には、次のようにある。

Iranian film-maker Jafar Panahi gets six-year sentence
20 December 2010 Last updated at 20:13 GMT
http://www.bbc.co.uk/news/world-middle-east-12045248

Farideh Gheirat (= Panahi's lawyer) said Mr Panahi had been convicted of working against the Iranian system, the semi-official Isna news agency reported.

...

"Mr Panahi has been sentenced to six years in jail on a charge of (participating) in a gathering and carrying out propaganda against the system," said Ms Gheirat.

...

According to a statement released in Italy in November, Mr Panahi had gone on trial in Iran accused of making a film without permission and inciting opposition protests after the disputed 2009 presidential election that led to months of political turmoil. ...


つまり、「イランの体制に敵対的な行動をとった」(国家転覆罪のようなもの)。具体的には「集会に参加」、「体勢に反対するプロパガンダを実行」。

また、2010年11月のステートメントによると、許可なく映画を制作した罪、2009年大統領選挙後の反政権運動の煽動の罪……。

別の記事によると、「許可なく制作」していた映画というのは、イランの反政権運動(緑運動)の記録映画だそうだ。

イラン当局、「政治的な話じゃなくて単なる犯罪」て説明してたよね、国営系メディアで。

2009年、イラン大統領選挙後、イランでは「選挙不正」、「票のごまかし」が指摘され、政権に票の数え直しを求めるなどの運動が起きた。実際にその後、選挙管理委員会が一部ででたらめな選挙があったことを認めたが(開封されずに放置された投票箱が見つかったり、ある地域の投票率が100%を上回っていたりした)、「結果を左右するものではない」との理由で、票の数え直しなどは行なわれなかった。政権批判の運動はますます激しくなった。元々「イスラム共和国」に対する武装闘争をやってた組織なども便乗した。流血と死をもたらす暴力的弾圧が、当局が「アジト」と見ていた大学寮はもちろん、テヘランの街でも行なわれた。中国などと同じように政府がネットを管理し、接続制限を課している状況下、イラン国内から何とか在外イラン人などに伝えられた映像が日々YouTubeにアップされ、夜毎にテヘランの町に響く「アッラー・アクバル」の声(本来の「イスラム革命」の精神を取り戻せ、という要求の象徴)が東京の私のところにも届けられた。

ジャファール・パナヒが逮捕された、というニュースが飛び込んできたのは、2009年7月の終わりのことだった。その10日ほど前に、デモで渋滞するテヘランの街角で、座り疲れたので車から降りてちょっとデモを見てみようとした20代の女性が銃撃された。1発の銃弾に心臓を貫かれたNeda Agha-Soltanさんは、本人は「ノンポリ」だったけれども、イランの反政権抗議運動のシンボルになった。彼女の追悼のための集会は当局によって禁止された。しかし人々はこの犠牲者を悼むために彼女のお墓のところに集まった。ジャファール・パナヒもそこにいて、そして当局に逮捕された。

このときはすぐに釈放され、9月にはカナダのモントリオール国際映画祭で審査委員長として、反政権抗議運動のシンボル・カラーである緑色を身につけた人々に囲まれ、ネダさんの写真を持って登場した。その後、パナヒはパスポートを没収され、出国を禁止された。翌2010年2月のベルリン国際映画祭にはパネリストとして招かれていたが行くことができず、そして3月、自宅にいたところを逮捕された。

逮捕された彼は政治犯が多く入れられているエヴィン刑務所に送られた。5月のカンヌ国際映画祭では、座る主のいない椅子に名札が置かれた。(ノーベル平和賞の劉暁波のempty chairの前に、カンヌでのパナヒの椅子があった。)
http://www.youtube.com/watch?v=qr8jfRq33e0

カンヌ国際映画祭では、映画祭およびフランス政府からのメッセージが発された。獄中でこれを知らされたパナヒは応えた。

そのことはこのブログで書いている。

2010年05月16日 身柄を拘束されたままのジャファール・パナヒ監督のメッセージ、エヴィン刑務所209から
http://nofrills.seesaa.net/article/150021245.html
親愛なる友人の皆様、エヴィン刑務所の暗く狭い独房から、心からのご挨拶をお送りします。

今日、家族・親族の者たちと会いました折、第63回カンヌ国際映画の初日に皆様がたがしてくださったことを聞きました。残念ながら、わたしは現地に行くことができません。

ここから私は、皆様がたの堂々たる思いやりのお気持ちに感謝の意を表し、カンヌ国際映画祭運営の皆様、とりわけにジル・ジャコブ氏に敬意を表します。

また、フランスのベルナール・クシュネル外務大臣、フレデリック・ミッテラン文化大臣にも、わたしの身柄解放のためにいろいろとご尽力いただき、感謝申しあげます。本当にありがとうございます。

……

明日はよりよき日になることを願って

ジャファール・パナヒ

テヘラン、エヴィン刑務所、209棟
2010年5月13日


このときの私のメモによると、“当局はパナヒ監督の逮捕事由について「反政権抗議行動とは関係なく、単なる犯罪行為である」という内容のことを言っているが、その「犯罪行為」が具体的にどのようなものであるかについては説明がない。”

ひょっとしたら「駐車違反および道路不法占拠」のようなものかもしれない(映画撮影の機材車を停めて、歩道で撮影を行なっていた、などの場合はそれでパクっておいて、最終的には弾圧する。警察国家でよくある手法)と思っていたし、いずれにせよ当局が「これは政治的な逮捕じゃないですよ」と言ってるのはごまかしだろうということは予測していた。

そしてジャファール・パナヒの何がいけなくて逮捕・投獄されたのかが明らかになったのは、12月の判決申し渡しのときだった。(イランの裁判はいつもそう。起訴の時点での「容疑」が、はっきりしないか、やたらと何にでも適用できるものだ。)

要は、公然と当局に逆らっていること、そして「外国」で発言の場を得ていること。それが「罰」に値する、と。

これは「迫害 persecution」だ。

腹が立ちすぎて、どうしたらいいのかわかんなくて、越年しちゃったよ!



この映画、最高だな。「柵のところで見てる兵士に実況させろ」とか、「あいつの実況で満足できるんならそもそも来んな、家でテレビ見てろ」とか。



追記:
1979年革命で国を追われたパーレビ国王の息子で、現在(王権復古運動とは距離を置いて)人権啓発活動をしているレザー・パーレビ氏の声明:
http://www.facebook.com/note.php?note_id=180649611953754

※この記事は

2011年01月01日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 13:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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