「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2010年11月21日

ドキュメンタリー『ダライ・ラマのヒーロー』(明日までストリームあり)

【22日午後】全体にわたって少し書き足しました。

ダライ・ラマ14世が「私のヒーロー」と讃えた北アイルランドの男性についてのドキュメンタリーが、UTVのサイトで期限付きで公開されている。現時点で「あと2日」とあるので、今日明日じゅうに見るのが確実だろう。長さは24分くらい。

The Dalai Lama's Hero
24 October 2010
http://www.u.tv/utvplayer/video/133189

このドキュメンタリーを制作したStakeholder Mediaのページ:
http://www.stakeholdermedia.com/news/%E2%80%9Cthe-dalai-lama%E2%80%99s-hero%E2%80%9D/

この男性、リチャード・ムーアさんについては、下記のTogetterで言及しているが、「チベットNOW」さんの5月の記事を参照。(今回のUTVのドキュメンタリーは、ここで述べられているムーアさんのチベット訪問についてのもの。)

北アイルランド紛争、暴力・復讐・赦しをめぐって
http://togetter.com/li/28023

チベットNOWさんから、編集して引用:
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51446072.html
※しかしこのブログ、コメント欄にひどいのがいるな。ダライ・ラマがお聞きになったらどれほど悲しまれるかという言葉が。

彼は全盲だ。1972年、北アイルランドのデリーで事件は起こった。10歳の彼は下校途中だった。警察署が火炎瓶などで襲われており、それに対し英軍がゴム被膜弾を発砲した。流れ弾の一つが少年の眉間に命中した。彼は両眼の視力を失った。

「病院で私は目隠しのせいで見えないだけだと思っていた。友達が来ると『早くこの目隠しが取れるといいな』とか言ってた。ある日、兄が中庭に私を連れ出し『お前、何が起こったかわかってるか』と聞いた。『うん。ゴム弾が当たった』と答えた。『それで、どうなったかは?』、『よくわからない』。

「兄は私に『お前は目が見えなくなったんだ』と言った。その時はすぐに納得した。『デリーFCが今日負けたというニュースを聞いて、すぐにそのことを受け入れるように』。だが、その夜は眠れなかった。大好きなお母さんとお父さんの笑顔をもう二度と見ることができない、と思って泣いた」。

視力を奪われた彼はその後大学を卒業し、結婚して娘二人を得た。ビジネスにも成功し、音楽活動も行なっていたが、あるとき思い立って店を売り、それを元手にある団体を作った。世界中の彼と同じような運命に遭った子どもたちを救うための団体 “Children in Crossfire”だ。

成人した彼リチャードはまた、彼をゴム弾で銃撃し失明させた張本人の軍人チャーリーと会う。そして一切の恨みなくチャーリーと友人になった。そのチャーリーもリチャードと共に(ダライ・ラマ法王の招待で)ダラムサラまで来て、会場で話をした。

リチャードさん:「自分の身に起きたことを恨んだこと、相手に怒りを抱いたことはない。怒って傷つけられるのは自分の心だ。怒りの犠牲者になるのは自分だ。…私が怒れば周りの人たちは苦しむだろう。だから怒らない。忍耐、寛容、許しは自分への贈り物」


ムーアさんの Children in Crossfire のサイトは下記。
http://www.childrenincrossfire.org/
In 1972, aged 10, Richard Moore, the founder of Children in Crossfire, was blinded by a rubber bullet fired at point blank range into his face. Amazingly, from childhood to the present day, he has never allowed bitterness to stunt his development. "I have learned to see life in a different way", is how he describes his remarkable acceptance of what, for most, would be a debilitating trauma.

A decade ago he felt the need to harness all that he had learned and put it at the service of humanity, particularly children around the world who have been caught in the crossfire of poverty.

The story of Children in Crossfire has its roots in what began as a tragedy and ended as a triumph of the human spirit to overcome adversity...

Children in Crossfire has become an international organisation working to protect and promote the rights of some the world's most vulnerable children.


彼が失明した経緯の説明が、「チベットNOW」さんのとは全然違っているが(「流れ弾」とは書かれていない。至近距離から顔面を撃たれた、とある。それはつまり、国家の暴力装置の一員が、この10歳の少年は「暴動」に加わっていたと判断した、ということだろう。それが根拠のあるものか、無根拠なものであるかは情報が与えられていないのでわからないが、当時のデリーは、子供だろうが石の一つでも投げれば「暴徒」として扱われるのが当たり前だった。1972年1月30日のブラディ・サンデー事件で狙い撃ちされたティーンエイジャーは、「デリーのフーリガン」として治安当局からマークされていた)、ムーアさんの活動にはそれは重要なことではない。

UTVのドキュメンタリーの最初のほうでそれが重要なことではないということがムーアさん自身の口から語られている。「撃ったのはどこに住んでいるなんという人なのかと思い、最終的に2005年にチャールズという人だということがわかりました。そして2006年、彼の住んでいるスコットランドを訪問しました」。

「そのころは紛争が本当にひどくて……デリーはno-go area(ナショナリストのコミュニティがバリケードを築いて、英軍・警察が入ってこられないようにしていた地域。その中で「警察」としてロイヤリストの攻撃を未然に防ぐために検問を実施するなどしていたのがIRA)があり、ブラディ・サンデーの衝撃も冷めやらぬときでした。気持ちの良い、晴れた午後でした。学校が終わって、サッカー場を抜けて走って……軍の監視塔の脇で、兵士がゴム弾を発砲し、それが顔面にまともに当たって、私は視力を失いました」。

そして、ムーアさんの娘さんが大きなスーツケースにシャツやズボンをつめるのと同様に、元英軍兵士のチャールズ・イネスさんも自宅でスーツケースに荷物をつめている。

ムーアさんの顔面を撃ち、視力を奪ったのは、イネスさんだった。「あのときに、将来どうなるかが見えていたら、私はあんなことはしなかっただろう」、「私には、彼の視力を取り戻してやることはできない。自分のしたことの結果を変えることはできない」と語るイネスさんは、国家の暴力装置の一員として自分がしたことをこう語れるほどに受け入れられるまで、どれほどの葛藤を経てきただろう。

イネスさんは今回のムーアさんの旅に同行する。

ダライ・ラマ14世がムーアさんに会ったのは2000年10月、ベルファストで平和会議が開催されたときだ(1998年の和平合意から2年半後)。ドキュメンタリーの映像は、当時の記録映像になる。会議室のようなところで、ダライ・ラマを迎えるデイヴィッド・トリンブル(ユニオニスト政党UUPの党首で、当時の自治政府ファーストミニスター)は、私が見たこともないような穏やかで柔和な笑顔でダライ・ラマをお迎えしている。ムーアさんはこのときに、デリー代表団の一員としてダライ・ラマに会った。ここから友情が始まった。

そして2007年6月、Children in Crossfireの10周年の行事に、ダライ・ラマは招待される。このときにイネスさんとも会い、ダライ・ラマはムーアさんとイネスさんの双方をダラムサラ(ダライ・ラマがお住まいの都市)に招待した。

ここまででだいたい5分くらいである。

飛行機に乗ったムーアさんはニューデリーに到着し、ホテルの庭でイネスさんと落ち合う。この「おじさん2人が再会する」場面が、既に胸が熱くなるものがある。ひとりは全盲で、ひとりは彼を全盲にした兵士だ。その2人が本当に「友人同士」の言葉を交わす。(しかし "chum" って映画以外では初めて聞いたような気がする。)

イネスさんを待つ間のインタビューで、ムーアさんは「起きてしまったことを修正することはできない。できるのはそれを受け入れ、前に進んでいくことだ」と語る。

そして2人はダラムサラへ向かう。車内で、ムーアさんのエージェントが町の様子を言葉で説明する。ムーアさんは子供たちの歓迎を受けたあと、車で到着したダライ・ラマ(車から降りた直後の儀式的な段取りも興味深い)と抱擁を交わす。「お元気でいらっしゃいますか」というやり取りで、ダライ・ラマは自らめがねを外してムーアさんの手を取り、「確認してください check, check」と言いながら自身の顔面に手をあてがう。警備の人や宗教的なお道具を持っている人々も笑顔になる。

そして、集まっていた一般の信者の人たちに声をかけ、建物の中に入る。ここでムーアさんの「大統領や首相と日常的に面会するような立場にある世界的な指導者でありながら、一般人の中に入り直接交流し、私のような一般人と親交を結ぶ人はあまりいない。だからこそ敬愛を集める」といった言葉が入る。

この日の集まりは、親元を離れざるを得ない状況に置かれた(親が死んだり投獄されたり、あるいは子供だけダラムサラへ送っているなどの事情で)チベット人の子供たちが多く通う学校の講堂で行なわれた。講堂の中には世界的にごく一般的な制服の男子と女子だけでなく、僧衣を着た若いお坊さんたちもいる。若いお坊さんだけではなく少し年長の方もいらして、少し後の部分では、西洋人のお坊さんの顔も見える。

壇上でダライ・ラマ法王がムーアさんについて説明し、紹介すると、ムーアさんが「猊下が『私のところにおいでなさい』とおっしゃったときは、まさか本気でおっしゃっているとは思いませんでした。社交辞令 something nice to sayだろうと思っていました」と話を始める。

ムーアさんいわく、彼が全盲であることを知った法王は、You have great insight. You may not be able to see, but you see better than someone with eyesight. とおっしゃったという。

ここらへんまでは学生たちも神妙な面持ちで聞いているのだが、相手はアイルランド人、油断しちゃいけない……。

ムーアさんいわく、「そこで私は猊下に尋ねました。『私の妻と娘はご覧になりましたか』と。猊下は『はい、あなたはご覧になれないかもしれませんが、たいへんにお美しい』とお答えになりました。ここで私は少し心配になったのですが……妻が『ダライ・ラマって素敵な方ね』と。正直、ちょっと妬けますね」。

一同爆笑。女学生の戸惑ったような笑いがいい味出してる。(笑)

まさかダライ・ラマをダシにしてこのネタで笑い取るとは、誰も思ってなかったに違いない。

こうして場を暖めておいて、ムーアさんはシリアスな話を始める。「撃たれたことで苦しんだのは私ひとりだけではありません。」

ダライ・ラマをはさんで向こう側に座っているイネスさんが「私が撃った」という内容の話を始める。「あの日のあのような状況下では、ラバー弾を撃つことがごく当たり前 normal の対処法でした」。

生徒たち(今度は男子の席の様子が画面に)が真剣な表情で聞き入る。

イネスさんは語る。"There was nothing normal whatsoever in the outcome. The outcome was simply tragic, and very quickly I was made aware that I had blinded a small boy of ten. I was absolutely shocked, apalled, devastated..."

イネスさんがそれを語っているときの壇上の様子。ダライ・ラマはずっと、ムーアさんの手を握っている。


ムーアさんはそれを引き継いで語る。「目が見えないことで苦労することもあります。それでも、私は一瞬たりとも、自分に起きたことについて怒りを覚えることはありません」。「(2005年に)チャールズに会ったとき、私は猊下のお言葉を思い出しました。猊下はおっしゃっていました。ゆるすことは、あなた自身への贈り物ですよ、と Forgiveness is a gift to yourself.」

ムーアさんがそう語っているときの壇上の様子。ダライ・ラマの手は、暴力の行使者であるイネスさんの手も握っている。


ムーアさんは「チャールズが私のゆるしを求めているとすれば、それはもう済んでいます。しかしそれが重要なのではない。重要なのは私はゆるすことができたということです。誰かの視力 eyesight を奪うことはできても、ヴィジョン vision まで奪うことはできません。それが重要なことです」と述べ、講堂に集まった人々に向けて「あなた自身のヴィジョンを大切にし、それに向かってがんばっていってください」と語りかけ、ダライ・ラマというすばらしいリーダーについていってほしいと述べて講演を終えた。「私は疲れたとき、孤立無援だと感じるとき、猊下のことを思います。猊下、あなたは私の最大の友人です。ありがとうございます」

ここまででだいたい15分くらい。(講演でのムーアさんの英語はRPに非常に近く、聞き取りにはまったく努力を要しない。)

このあと、ムーアさんとイネスさんはダライ・ラマと個人的に話をするため、2人で(まあ、取材クルーは同行しているのだが)ダラムサラの街を歩いてゆく。イネスさんの腕を借りて商店街を歩いてゆくムーアさん。通路の脇にある、チベット仏教の、何ていうんでしたっけ、くるくる回すあれ……ああ、そうだ、「マニ車」だ、それの説明をイネスさんがムーアさんにしていたりする。

ここらへん、音声があまり鮮明ではなく(町の音がけっこう入っている)、ムーアさんの声質もこもりがちで非常に聞き取りづらいのだが、「デリーの町で敵同士として対峙していたスコットランド出身のあなたとデリー出身の私が、今ここにこうしてダライ・ラマにお会いするためにインド北部に来ている」ということについて感慨深い思いだ、という内容だ。

前日の、学校の講堂での講演で彼らのことは街の人々に知られている。お坊さんやらおかあちゃんやらが握手を求めてくる。そんななか、1人の背の高い西洋人の青年がムーアさんと握手をしている。

彼の名前はハンス。ノルウェー人で、PKOでコソボに行っていた。

1969年、カトリックのコミュニティに向けられたロイヤリストによる暴力と、それに応じたカトリック側武装勢力の暴力の応酬が、プロテスタントが独占していた北アイルランド自治政府の手に負えない状態となっていた。そこで両コミュニティの勢力引き離しを主な役割として、英軍はベルファストやデリーなどの街に展開した。

最初は(少なくとも形式上は)第三者の立場で介入した英軍だったが、ほどなく、「平和維持」の名の下に、自国民――北アイルランドのカトリックの人々――に向けて暴力を行使する主体となってゆく。1972年にムーアさんがイネスさんによって撃たれたとき、「英軍が中立的な第三者」という神話はとっくの昔に崩れ去っていた。

ダラマサラの街角で彼らに話しかけたハンスというノルウェー人の青年は、軍人としてコソボに赴いていた間に、自身の行使した暴力で女性を傷つけてしまった。「就寝中の女性のベッドの脇にグレネードが着弾して……その人が救急車で運ばれたところまでは見たのですが、結局どうなったのかは僕は知らないのです」と彼は語る。

ムーアさんとイネスさんは、真剣な表情でその言葉に耳を傾けている。そしてムーアさんは「結果を引き受けること」について語る。その重要性を力強く言葉にする。

そしてハンスと彼らは固い握手を交わし、「また連絡ください」といって別れる。

次の場面では、ムーアさんとイネスさんはダライ・ラマの自邸の応接間のソファに落ち着いている。そこにダライ・ラマが入ってきて握手と抱擁を交わし、「ようこそ、私の第二の自宅へ。この50年間はここが私の自宅です」と述べる。その中でダライ・ラマはリチャード・ムーアさんについて「私のヒーロー」と言う。そして重ねて、「リチャードは私の友人、最も親しい友人であり、それ以上に私にとってヒーローだ」と。

そして軽口を叩いてみなでがははと笑いあったあと、ダライ・ラマは£5,000をムーアさんのChildren in Crossfireに寄付するとの書類を読み上げる(読めない単語があったりするのがかわいい)。ムーアさんは「えっ」という顔で聞いている。「最も弱き立場におかれている子供たちのために」。(Children in Crossfireはタンザニアなど深刻な武力紛争に子供たちが巻き込まれた国で活動をしている。)

そしてさらに「本を書いたら印税が入るから!」などという軽口(by ダライ・ラマ……これは、まるで、ただのおっさん……)を挟みつつ、「私は時として言葉だけの人間になるが、リチャードは行動の人だ」。

最後はムーアさんとイネスさんの「まだ旅は続く」というそれぞれの言葉で締めくくられている。



この番組についてのChildren in Crossfireの記事:
His Holiness The Dalai Lama of Tibet is honoured to become our Patron
http://www.childrenincrossfire.org/content/article/his-holiness-the-dalai-lama-of-tibet-is-honoured-to-become-our-patron/166

ダライ・ラマのサイトにはこの番組に連動したビデオはないようだが、過去のビデオで北アイルランドに関係するものがある。自邸にノーベル平和賞を受けた女性3人を招いたときのもの(対人地雷廃絶のジョディ・ウィリアムズさん、北アイルランドの『ピース・ピープル』のマレード・コリガン・マグワイアさん、イランの人権活動をしてきた弁護士のシリン・エバディさん)。
http://dalailama.com/webcasts/post/12-his-holiness-the-dalai-lama-meets-with-three-nobel-laureates

※アイルランド人の女性の名前のMaireadは、アイルランド語の名前で、発音は「マレード」です。「マイレッド」ではありません。(綴りが実は文字にアクサンがついているのが英語表記では欠落する。それをそのまま英語読みするから「マイレッド」などという変な読み方がされるのだが、YouTubeでも何でも、音声が確認できるところで確認してみればいい。)

ムーアさんとの学校での講演会のときのニュース@法輪功系メディア:


ベルテレのオピニオン@10月末。夏に暴れたアードインの子供たちや、10月に暴れたラスクールの子供たちが、Children in Crossfireが支援しているアフリカの少年兵のように武装組織に利用される可能性について書いた文章。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/opinion/northern-ireland-paramilitaries-are-cynically-exploiting-young-people-14990043.html



リチャード・ムーアさんは、英軍兵士に傷つけられたナショナリストの一般市民だが、ムーアさんのような「ゆるし」の体験は、北アイルランド紛争によって傷つけられたあらゆる立場の人たちに共有されている(ただし、いつまでも「被害」のことを言う人たちもいる。DUPの議員の一部にそれが最も顕著)。

最も印象に残っているのは、IRAの爆弾犯に家族を殺されたイングランドの一般市民の「ゆるし」だ。1984年のブライトン爆弾事件で父親(保守党の国会議員)を亡くしたジョー・ベリーさんと、その爆弾を仕掛けたIRAのメンバー、パット・マッギーとの対話。
http://theforgivenessproject.com/stories/jo-berry-pat-magee-england/

大まかな内容は下記に。
http://nofrills.seesaa.net/article/130128065.html

ジョーさんの言葉から:
私はもう「赦し」について語りません。「私はあなたを赦します」と言うことは,相手を下に見るような感じがします――それによって「私たちと彼ら」というシナリオ,私は正しくあなたは間違っているというシナリオに,閉じ込められてしまうことになります。そのような態度は何も変えません。しかし私は共感することができる。そしてその瞬間には一切の判断はない。パットと会うと時々,彼の人生について非常にはっきりと理解することができ,そうなれば何も赦すものなどなくなります。

※この記事は

2010年11月21日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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