「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2010年09月30日

デイヴィッド・ミリバンド(兄のほう)が第一線を退くことを宣言。

まだ45歳の政治家が「引退」とか「退く」といっているという見出しもうちらからしてみればすごい違和感だが、労働党党首選挙で最後の最後で苦杯をなめたデイヴィッド・ミリバンドが、フロントライン・ポリティクスから退き、今後は一議員(「一兵卒」かw)として政治活動を続けることを、日本時間の午前1時に宣言した。理由は、「もしこのままフロントラインで続ければ、メディアが(党首となった弟のエドとの間の)『兄弟の確執』ばかりを書き立てるだろうか」といったことだ。むしろインパクトが大きいのは「エドの兄」としてではなく「主要なブレアライト」としての第一線(シャドウ・キャビネット)からの引退だと思うが。



英国政治で、野党 (the Official Opposition) が "frontline" と言うときに意味しているのは、「影の内閣 Shadow cabinet」である。ブラウン政権で外務大臣だったデイヴィッド・ミリバンドは、そのまま「影の内閣」の外務大臣になっていた。今回、エドが労働党党首(「影の内閣」の首相)となったことで「影の内閣」も再編されるが、その再編にはデイヴィッドは加わらない、というのが今回の声明である。

BBCも大きく報じている。



実は既にエド・ミリバンド新党首は「兄は(今ではなく)将来において大きな貢献をするであろう」と発言しており、つまりデイヴィッドの第一線からの引退は20時間かそこら前からはわかっていたことだった。

「イラク戦争」(というか「人道的軍事介入」)というネオコンのアジェンダを一度注ぎ落とすために、労働党にとって必要な通過儀礼、という感じはする。それでも、ダイアン・アボットやジェレミー・コービンのようなガチの左派でない限り、「われわれはイラク戦争には常に反対していた」と正々堂々と言えるLibDemに対しての足場は弱い。開戦時は米国にいて議会では投票していなかったことを足がかりにしているエド・ミリバンドにしても、2005年に議員となって以降は、イラク戦争について党の方針にrebelはしていない。

というわけでなんか複雑化してきたけれど、おもしろくなってきたかも。

なお、英国のシャドウ・キャビネットは、正式に「反対党」と見なされた党 Official oppositionから選ばれるもので、単に自分たちが名乗るだけでは成立しない。
http://en.wikipedia.org/wiki/Shadow_Cabinet

※この記事は

2010年09月30日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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