以下はその内容のメモをまとめたものである。
米国、国立公文書館に保存されている被爆地調査の映像で、番組は始まった。ナレーションが番組の概要を説明する。
【ナレーションの概要】
原爆投下直後から、20,000人以上を対象に、原爆が人体に与える影響が徹底調査されていた。日本の科学者によって行われた調査は、全181冊、10,000ページの報告書にまとめられていた。番組は今回初めてこの報告書のすべてを入手した。
報告書には、学校の校舎内にいた子供たちがどこでどう死んでいたかを、校舎の見取り図に●印で示すなど、非常に詳細な記載がある。また、200人以上が標本として保存された。
日本の調査団が行ったこの調査の記録は、すべて日本人の手で英訳され、米国に渡された。「被爆者よりアメリカとの関係を優先した日本」(←ナレーションの書き取りそのまま)。「唯一の被爆国」として「原爆の悲惨さ」を世界に訴えてきたが、その一方で被爆者は放置されてきた。
ここでタイトルが入る。
番組の最初のセクションは、被爆直後の広島での日本陸軍による調査についての説明と証言だ。このセクションは、現在の広島の空撮映像で始まる。隙間もないほどびっしりと建て込んだ都会の中に、黒っぽいグレイの大きな建物がある。当時のまま残されている旧陸軍病院宇品分院の建物だ。最初の調査はここで行われた。
宇品分院では、2ヵ月半の期間に延べ6,000人の被爆者を調査した。画面に出てくる記録写真では人々が単に床の上にほとんど隙間なく横たわっている。「みな、むしろのような布団に寝かされていた」という。
番組で紹介された宇品分院での「むしろのような布団に寝かされていた」写真は、中国新聞の2005年の特集の記事のひとつ、「体も未来も焼かれて」に掲載されているものではないかと思う(確信は持てないが、こういう構図の写真だったと思う)。スクロールダウンして、ページの中ほどにある次のキャプションの写真だ。
「船舶練習部ニ於(お)ケル兵傷者収容状況」
爆心地から南東4・1キロの陸軍船舶練習部は臨時野戦病院、次いで広島第一陸軍病院宇品分院となり6000人以上が収容された。練習部の敷地は現在はマツダ宇品西工場となり、建物は倉庫として現存する
番組のナレーションによると、陸軍医務局による調査が開始されたのは、原爆投下2日後の8月8日。このときの調査結果は1冊の報告書にまとめられた――『原子爆弾による広島戦災医学的報告』。放射線がいかに人体を蝕んでゆくのか、そのデータを詳細に記録したものである。
宇品でのこの調査対象となった男性を、番組は取材する。現在89歳の沖田博さん。当時、爆心地から1キロの地点にある兵舎で被爆、急に具合が悪くなって宇品の病院に送られた。しかしそこで沖田さんは「治療」を受けることはなかった。毎日検査だけが行われた。それについて沖田さんは「こいつはいつまで生きるのかを確認するためだと思います」と語る。
画面には報告書にある沖田軍曹の記録が映される。体温は40度くらい、白血球は1,300と極端に少ない状態。沖田さんは家族の看病で一命をとりとめ、その後は回復の過程が記録された。抜けていた髪が生え、さまざまな検査が2ヶ月続いた。
そのときのことを沖田さんはこう語っている。
「お前モルモットじゃ、と言われた気分。クソ!と思ったが、態度には出せなかった」
この時期の調査について、広島平和記念資料館で2003年7月から12月まで開かれた企画展、「原子爆弾ナリト認ム」は、次のように説明している。
■「はじめに」より:
原爆投下後、日本政府と軍はいち早く調査団を派遣します。これは、原子爆弾であることを確認するために行なったのものでした。
■「被爆直後から始められた被爆調査」より:
被爆直後、呉海軍鎮守府や似島陸軍船舶練習部など広島付近にあった軍の機関が、広島へ救護に入ると共にいち早く調査活動を開始しました。これは、敵の新型兵器の威力を明らかにし、その対策を講じるために行なわれた軍事的な行動でした。
原爆投下16時間後、アメリカは、原子爆弾を投下したことを世界に向て宣言(トルーマン声明)し、これにより日本政府・軍の幹部は原子爆弾であることを知るところとなりました。政府と大本営は、原子爆弾であることを確認するために日本の原子爆弾開発に携わった関係者を中心とする調査団を急きょ広島へ派遣しました。また、陸海軍の各機関も、軍医や大学の研究者らを中心とする調査団を次々と派遣しました。
大本営調査団は、8月10日に広島で陸海軍合同検討会を開き原子爆弾であることを確認し、すぐさま中央に打電するとともに報告書を作成します。
これを受けて政府と軍は、海外に向かっては原子爆弾を投下した米国を非難し、国内に対しては原子爆弾であることを隠し戦争を継続させようとします……。
……国民に対し原爆投下の事実を公表したのは終戦の前日の8月14日になってからでした。
番組は次のセクションへと進む。
1945年だけで合わせて20万人以上が死亡した。投下直後に軍によって始められた調査は終戦で規模を拡大し、1,300人の科学者・医師による国家プロジェクトとなった。2年あまりの調査で人体への影響が細かく調べられ、まとめられた。
それを、日本は全て英訳してアメリカへ渡していた。なぜか。
番組のカメラは米国の国立公文書館に入る。そこに保存されている報告書の一枚に、"To Col. Oughterson" 「オーターソン大佐へ」とある。
彼はアシュレー・オーターソン。マッカーサーの主治医を務めた軍医で、アメリカ側の調査団の団長だった。
オーターソン大佐のこの調査団については、英語で書かれた文章がネット上で見つかる。例えばワシントン大学のサイトにある下記のもの。
THE ATOMIC BOMB--A Study of Aftermath
http://artsci.wustl.edu/~copeland/atomicbomb.html
On the other hand, although a well-staffed and equipped medical team had not been organized by the Surgeon General of the US Army for investigation of the biological implications of the atomic bomb, Colonel Ashly Oughterson, the surgical consultant to General MacArthur, saw need for such a medical study. Thus, Oughterson devised a study in late August of 1945, and by September that same year, an American team of scientists, having persuaded the Japanese government to join them, began a collaborative investigation to study the residual radiation effects of the bombs (Liebow 38). The research team focused on the medical consequences of radiation, seeking answers to three main questions: what are the immediate effects, does radiation result in an increase in cancer incidence over the long-term, and how does radiation influence the future generations of survivors?
この調査団の最も若い団員だったフィリップ・ロジさん(92歳)を番組は訪ねる。彼は報告書が米国に提供されたことについて、次のように語る。
「日本から、報告書を提出したいという申し入れが、到着後すぐにあった。オーターソンは喜んでいた。投下直後からの調査は被爆国にしかできない。非常に貴重なものだ」
日本側の調査を率いていた小出策郎陸軍省医務局軍医中佐は、30代で医務局に入ったエリートだった。彼が率先して報告書をアメリカに渡した。なぜか。
小出中佐は既に鬼籍入りしており、番組は、当時を知る三木輝男少佐(94歳)に話を聞く。父親が医務局長だった三木少佐は終戦時大本営にいた。日本側は、占領軍との関係に配慮していた、という。
「いずれ要求されるだろうから、早い方が心証がよかろうと、言われる前に持っていった」
記者が問う、「『心証がよく』というのは、何のために」と。カメラは、前を向いたまま沈黙する三木さんをしばらくとらえる。重い沈黙。
そして三木さんはようやく口を開く。
「731のことなんかも、あるでしょうね」
小出少佐は陸軍の戦後処理を任されていた。ポツダム宣言では日本の戦争犯罪を追及していた。小出少佐には、「敵に握られるとまずい証拠は隠滅せよ」との指示が出されていた。そのときの陸軍幹部の動揺するさまを、三木少佐ははっきり見ていた。
ナレーションは「戦争犯罪から逃れるためにも、戦後の日米関係を築くためにも」と言う。
三木少佐は言葉を続ける。新しい兵器を持てば(それがどのような影響を与えるかを)調べたい、と。
「原爆のことは、かなり有力なカードだった」
カード。
「原爆の被害を受けた国」は、ほとんど「証拠」が残っていないらしい(2003年10月の、内閣総理大臣からの七三一部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問に対する答弁書を参照)戦争犯罪の加害国であった。
その「加害」という負のカードを、「被害」という正のカードで埋める。番組のナレーションは、「原爆を落とした国と落とされた国の利害が一致した」と言った。
「戦争」とか「紛争」と呼ばれる事態が、大きな視点から語られるとき、実際にその事態によって血を流したり命を奪われたり、精神的・物質的な苦難を強いられたりする人々がその語りでは見えなくなることがよくある。
近年の戦争でいえば、日本語メディアではどうなのかよくわからないが英語メディアでは、イラク戦争は米国や英国という情報社会の大勢力が当事者である分、まだ「影響を受ける当事者の語り」がよく記録され、伝えられているほうだと思う。(同じく米英を当事者としていても、アフガニスタンでの戦争はイラク戦争ほどには伝えられていない。その一因として、イラク戦争は国連安保理の決議なしで強行された、国際法上「不法」な戦争だということを追及する力が大きく働いているが、アフガンは安保理決議のある武力行使で、追及の力も今ひとつ強くない、ということがあるかもしれない。)しかし、例えばソマリアでの紛争、イエメンでの紛争、あるいはチャドやDRCでの紛争については、ごくたまにBBCなど大メディアに特集記事のようなものが出るが、継続的な報道はほとんどない。スーダンのダルフール紛争などは、一時期は「反中国」の思惑もあって米メディアなどがさかんに取りあげていたが、既にほとんど語られなくなっている。
そういうことのバックグラウンドにあるのが、「伝えられる国・場所での一般的な人々の関心の薄さ」にあることはもちろんだが、もうひとつ、実際に被害を受けている人々を事実上不在にしてしまう「国(政府)」という高いレベルでの「(外交上の)カード」という要因もあるだろう。そしてそれが「カード」であるのが明らかになるのは、常に、ある程度の時間が経過してからである。
番組は次のセクションに進む。
原爆投下から2ヵ月後、米調査団が現地入りする。小出中佐に代わって、都築正男帝大教授が日本側の調査を率いる。
この時期の調査について、広島平和記念資料館で2003年7月から12月まで開かれた企画展、「原子爆弾ナリト認ム」は、次のように説明している。
■「占領下の被爆調査」より:
8月30日に連合国軍最高司令官マッカーサーが厚木基地に到着すると、アメリカを中心とする連合国の占領政策が本格的に動き出しました。
原子爆弾を開発した研究機関の調査団であるマンハッタン管区調査団が広島に入るにあたり、連合国最高司令官総司令部(GHQ)から日本政府へ調査協力の指令が出され、日本側の協力を得ながら調査を行ないました。
今回のNHKの番組では、「GHQからの調査協力の指令」があったから日本が協力した、とは言っていない。この点が、この番組が戦後65年経過して明らかにしていることの最も重要な点だ。つまり、日米それぞれの調査の当事者が語る、日本による、いわば「思いやり」(例の「思いやり予算」的な意味で)。
さらにもう少し広島平和記念資料館の企画展より、「占領下の被爆調査 原子爆弾災害調査研究特別委員会と日米合同調査団」から。
……広島で調査活動中であった陸軍本橋少佐および東京帝国大学都築正男教授は東京に呼び戻され、調査団に同行・協力することとになります。
調査団は9月7日空路岩国に到着し翌8日に広島に入り、日本軍や行政各機関の協力を得ながら調査を行ないました。
9月8日、(アメリカの調査団団長の)ファーレル准将一行のグループは、厚木飛行場から飛行機6機で広島に向かいました。
広島に着いた一行は海軍鎮守府が用意したバスで中国軍管区司令部に行き、第二総軍司令官の出迎えを受けた後、調査を開始します。
一行には、東大都築教授、軍医学校本橋少佐などが同行し、彼らを案内するとともに、これまでの日本側の調査・研究結果を報告しました。
……文部省は9月14日、原子爆弾の被害を総合的に調査するため学術研究会議に「原子爆弾災調査研究特別委員会」の設置を決定し、15日通達「原子爆弾災害調査研究ニ関スル件」を出します。
通達によると、広島長崎の実情を「我が国科学の総力を挙げて」調査し、調査の性質については「本調査研究は純学術的なもの」であるとしながら、研究成果は「判明次第関係方面に速やかに報告し」「地方民生の安定に」活用するものとしています。
……9月22日東京帝国大学医学部で、アメリカ側軍医関係者と東京帝国大学医学部長宮猛雄教授らが会合し、アメリカ側は医学面での協力を要請しました。
その結果、「日米合同調査団」(アメリカ側は「合同委員会」と呼んでいます)が結成されます。
日本側参加調査団のメンバーは、主として都築教授によって選ばれました。東京帝国大学医学部の各教室から36名の研究者と医学部生21名、理化学研究所から村地幸一氏、これに、陸軍軍医学校、東京陸軍病院のメンバーが協力しました。
日本とアメリカの調査団からなる合同調査団の広島班(アメリカ側メイソン大佐以下10名、日本側37名)は10月12日に広島に入り、広島第一陸軍病院宇品分院を本拠として調査を始めました。
合同調査団のアメリカ側医師と日本側医師は共同で被爆者の検診を行ないました。
アメリカ側の第一次調査は、1946(昭和21)年9月に終り、収集した資料は米国へ持ち帰ります。
この合同調査団の調査内容については、アメリカ側は合同委員会の報告書1946(昭和20)年11月「日本における原爆の医学的効果」として、日本側は、学術研究会議の「原子爆弾災害調査報告集」の中でそれぞれ報告しています。
都築教授と陸軍が協力して作成した報告書番号14。原爆の破壊力についての報告だ。(手元のメモに「都築教授と陸軍が協力」と書いてあるので番組のナレーションでそういわれていたのだろうし、そのまま記載するが、この時点での「陸軍」は戦後処理、主に復員のために存続していたもので、11月には陸軍省は廃止・解体される。)
この報告書では、子供たちの死亡をソースとして、原爆がどのくらいの範囲で何人殺せるものなのかを示している。1945年8月6日は月曜日で、原爆が投下された朝8時15分には学徒動員されていた子供たちはまとまって同じ場所にいた。そのことで、ある意味「指標」として利用された。子供たちは、殺傷力を確かめるためのサンプルとなった。
具体的には、この報告書は広島の70ヶ所で子供たちが何人死んだかをマッピングしている。爆心地から何メートル地点では何人中何人死亡、というように。「爆心地から1.3キロでは132人中50人が死亡」、「0.8キロでは520人中520人全員が死亡」……。
番組では言葉にしていなかったが、この子供たちは非戦闘員だ。
むろん、非戦闘員の大量殺戮を行ったのは原爆だけではない。都市に対する大規模な空襲は例外なくそうだし、日本軍が行った先で村ごと住民を殺していたこともそうだ(12日の夜のNHKの番組で、「アジア解放」の理念で南方戦線に赴いたが実際にやってたことは婦女子を含む村人の皆殺しだったと語っていた戦争経験者がおられた)。ただ、原爆は威力がケタはずれである。そして「新型兵器」だったために、その威力を計量的に確認したいという探究心があって、それで子供たちがこんなふうに「数字」として取り扱われている。
番組は、調査対象となった第一国民学校にいた佐々木たえこさん(77歳)を取材する。被爆時は1年生だった。原爆投下時、学校では「建物疎開」の作業中で、屋外作業をしていた175人が被爆した。
報告書には「死亡:108人、重傷(負傷かも?):67人」と記載されている。
佐々木さんのとなりにいた親友も死亡した。国民学校から小学校となった現在も、学校の敷地には殺された学童たちの名を刻んだ碑が立つ。雨の中、傘をさしてその碑の前に立つ佐々木さんは「8月にまた来るからね」と碑に声をかける。
「帰るときに姿もないようでは、あまりにもむごいですよ」
都築教授の調査の背景には、米国からの要請があった。オーターソン大佐がこのデータに関心を示していた。
カメラはワシントン郊外、米陸軍病理学研究所へ行く。
「原爆の医学的効果」という6冊の論文にまとめられていた1万何千人の子供たちのデータから求められたのが、「死亡率曲線」だ。
原爆の殺傷力を示したこのデータが、冷戦時代の米軍の核戦略の礎となった。このデータを元に、ソ連の都市の壊滅に、広島型原爆何発が必要かが計算されていた。モスクワは6発、スターリングラードは5発、というように。
米国側でオーターソン大佐を引きついだのが、ジェイムズ・ヤマザキ大佐だった。94歳になったヤマザキ大佐のバックグラウンドは一切説明されなかったが、名前と風貌から日系人であろう。彼は取材に対し「まさに革命的だった revolutionary」、「広島の子供たちの犠牲がなければ原爆での死亡率曲線は得られなかった。日本の協力 association の賜物だった」と語った。
第一国民学校で被爆し、親友を殺された佐々木さんは、友人たちの死が日本人によって調べられ、アメリカの核戦略に利用されていたことを初めて知った。
「バカにしとるねー、言いたいです。手を合わせるだけです、何もできません」
深い沈黙と合掌。
「日本が国の粋を集めて行った調査」(ナレーションより)に参加した一人が、山村秀夫さん(90歳)。医師になって2年目で、都築教授の帝大調査団に参加した。彼は「調査は全てアメリカのためであり、被爆者のためという意識はなかった」と語る。
「日本で公表することもダメだし、持ち寄って相談することもできませんから」
報告書番号23に、山村医師の論文。被爆者にアドレナリンを注射して反応を調べるという「検査」を行った。(「検査」というより「実験」だ。)12人中6人がわずかな反応しか示さないという結果が得られた。
このように、治療とは関係のない検査を毎日行った。調べられることは何でも調べるという方針だった、と山村医師は語る。
死者もまた調査対象となった。仮説の小屋で次々に解剖が行われた。(ここで、医師が遺体を解剖する様子を遠めから撮影した映像が流された。マスクの医師の右手が動く様子。)
解剖されたのは200人あまり。14冊の報告書にまとめられた。
報告書番号87、子供の解剖結果が記載されている。長崎で被爆した11歳の女子、オノダマサエさん。
彼女の遺体はどのような経緯で提供されたのか。番組取材陣はマサエさんの甥にあたるヒロユキさんを訪ねる。既に世にない父カズトシさん(マサエさんのお兄さん)から話は聞いていた。ヒロユキさんが机においているマサエさんの写真は、「ワカメちゃんカット」のような髪型をした、目鼻立ちのくっきりしたかわいい女の子だ。
被爆したマサエさんは長崎市中心部にある救護所に運ばれていた。既に高熱で衰弱しきっていた。「兄ちゃん、家につれて帰って」が最後の言葉だった。カズトシさんがマサエさんを連れて帰ろうとしたとき、医師たちが「将来のために、妹さんを解剖にあずけていただけないか」といった。一度は断ったが、「将来のために」という思いで渡したのだ、と。被爆者のために役立ててほしいとの思いだった。
しかしマサエさんの遺体はその後どうなったのか。実は家族には何も知らされることなく、報告書とともにアメリカに渡されていた。そして昭和40年代になって、研究が終わった後に日本に返還された。現在は広島と長崎の大学に保存されている。
11歳でなくなったマサエさんは、肝臓や腎臓などを摘出され、5枚のプレパラート標本になっていた。標本が保存されている長崎大学医学部にヒロユキさんは向かう。
ヒロユキさんは自宅から持ってきたマサエさんの写真を、木の枠に入った5枚のプレパラート標本(ピンク色に染色されている)に添えて、じっと見つめる。そして「はぁー」と深いため息を何度かついて言う。
「これがおばさんですか。こんな形でお会いするとは、思ってませんでした」
「将来のために」と提供された11歳の少女の遺体は、結局、被爆者のために生かされることはなかった。
番組は次のセクションに進む。
原爆投下直後から行われていた国の調査。その内容が被爆者に明かされることはなかった。一方で被爆者訴訟が行われていた。
齋藤紀医師は報告書のなかで、ある手記に注目する。
報告書番号58、門田(もんでん)よしときさんという19歳の医学生(当時)が書いた「私の原爆症」という手記だ。
門田さんは投下4日後に広島に入った。直接被爆していないのに、39度を超える高熱、喉や歯茎の痛み、出血班など、直接被爆した人と同じ症状がその手記には記されていた。8月30日、門田さんは新聞で被爆者の症状についての記事を読んで「私の症状とまったく同じだ。私も原爆の被害者になってしまった」と書いていた。
門田さんは「入市被爆」していた。それを克明に記したこの報告書がありながら、長年、国は、入市被爆による人体への影響はないとして、原爆症の認定を拒否してきた。
今回、この報告書を見た斎藤医師は、「65年うずもれていた、うずもれさせられてきた」と語った。
「入市被爆」については2年前にやはりNHKスペシャルで報じられている。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/080806_2.html
見過ごされた被爆〜残留放射線 63年後の真実〜
原爆投下から63年。原爆の放射線による原爆症の認定基準が今年、大きく変わった。
見直しの特徴は、原爆投下後市内に入った「入市被爆者」と呼ばれる人達に対して、原爆症と認定する道を開いたことだ。これまで国は初期放射線の被害は認めてきた一方、放射線を帯びた土などが出す「残留放射線」の影響はほとんどないとして、11万人いた入市被爆者の原爆症認定の申請は、ほぼ却下してきた。
被爆後、広島や長崎市内に入った入市被爆者は、直接被爆していないにもかかわらず、放射線の影響とみられる急性症状が現れ、その後、白血病やガンなどで亡くなった。当時、いたる所で放射性物質と化した土砂や建物、死体から強い残留放射線が発生したことなどにより、相当量の被ばくをしていたとみられる。
昨年、発見された資料では、アメリカは1950年代に残留放射線の調査を始めながら「科学的に役立たない」と中止していたことがわかった。その後も調査は行われぬまま、入市被爆者は病気になっても国から「原爆症」と認められず、援護のカヤの外に置かれてきた。……
この文脈では今回の「封印された原爆報告書」の意味は、長年否定され続けてきた挙句、63年も経てようやく認定基準で「入市被爆」が認められた後さらに、その事実を示す証拠があったということが重ねて示された、ということになる。
番組は最後のトピックとしてこの「入市被爆」を取り上げる。3年前に亡くなった斉藤やすこさんは、投下5日後に親戚を探す母親に連れられて広島に来た。当時4歳。59歳で大腸がんになった。90歳を超えた母親は「連れて行かなければよかった」と後悔している。やすこさんが被爆者としての認定を求めた裁判で、国は「被爆はしていない」と言い続けた。最後の訴訟で「国は私のような入市被爆者の実態をわかっていません」と述べた。そしてやすこさんが亡くなって数ヵ月後に出た判決で、やすこさんは勝訴した。
自身の入市被爆を綴った門田さんの報告書の存在がもっと早くわかっていれば、存命中に勝訴していたのではないか。
その門田さんは現在も存命で、岡山県にいる。84歳になっている。齋藤医師は同じ医師として話を聞きたいと訪問する。腎臓、心臓などを悪くして、現在、門田さんは自宅で寝たきりの生活だ。
門田さんは、自分が日本語で書いた日記が英訳されてアメリカにあるとは知らなかった。日記は、広島から山口に戻ってから都築教授に書くように勧められたという。
「(都築教授が、私の通っていた)山口医専まで来て、細かく訊かれ、今から日記をつけるようにと言われた。例のオーターソンというアメリカの医師が私の手記を熱心に求めていることも知った」
手記には最後に「もしこれが役立つなら幸せである」と書いてある。これを見た門田さんは「なつかしいですね」と口にする。
「僕が残しておかないと、誰が残すんだ、という思いがありました」
本放送と再放送、二度にわたって見たが、全体的には取材陣GJと思う。とりわけ、米国の調査団、日本の調査団それぞれの当事者の口からの生の言葉を引き出し、見せて聞かせてくれたことは大きなことだった。
ただ、これは報道分野で広く見られる摩訶不思議な日本語なのだが、「国は」という行為主体の示し方がどうにもわかりづらかった。先日の「沖縄返還密約」の特集(『密使 若泉敬 沖縄返還の代償』)で、個人名が具体的に語られていたのとは対照的な印象だ。
また、「入市被爆」が認められてこなかった背景についても、時間が足らなかったのだろうかという印象だ。特に予備知識がなくとも、この同じ番組の前半の「米国との関係への配慮」への言及(そして日本側がそのような配慮をすることは、少なくともオーターソンら直接日本側と接触した人々は、よくわかっていただろう)から判断して、「入市被爆」など存在しない、という態度には米国による情報統制や、日本側による米国への配慮(もしくは米国からの圧力といえるものがあったのかもしれない)があったと推し量ることは可能だが。
そして、「過去(戦争の被害をこうむった自国民の救済)よりも未来(対米関係の強化)を重視」という方針は、良いとか悪いとかの価値判断抜きに単に事実として、自民党政権に一貫している方針である。(「事実として」というには、さらに「反共産主義」を加えなければならないが。)そのことへの言及も、あるいは言及までいなかない、ポインティング程度のことも、番組にはなかった。
なお、上記は再放送を見ながら取っていたメモを元にしている。聞き間違いや誤記などがあるかもしれない。人名については、下記を参照して確認した。
http://tv.yahoo.co.jp/meta/?minnaid=6059&date=20100806
封印された原爆報告書・2
【出演】フィリップロジ氏(元米国調査団)、三木輝雄氏(元陸軍軍医少佐)、ジェームズヤマザキ氏(カリフォルニア大学・名誉教授)、山村秀夫氏(元東京帝国大学調査団)、齋藤紀氏(医師)【人物】アシュレーオーターソン(米陸軍・大佐)、小出策郎(陸軍省医務局・軍医中佐)、都筑正男(東京帝国大学・教授)
アップロードする前にウェブ検索したところ、ブログ「飛耳長目 国際紛争の心理」さんの8月7日のエントリでこの番組についての詳しいメモがあるのを見つけた。各証言者の言葉など、自分のメモに間違いがないかどうかを確認するために参考にさせていただいた。
http://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/32727787.html
また、このブログのコメント欄から、笹本正男、『米軍占領下の原爆調査』という先行の著作(1995年、なんと15年前)について知った。
検索してみると、2005年に行なわれた、笹本さんへのインタビューがネット上にある。前後半に分けてアップロードされているが、その前半:
http://www.csij.org/archives/2007/02/interview5.html
少し抜粋:
20年前のある日、中島竜美さんが「原爆記録映画」の素顔というテーマのテレビ番組を作るので、そのための調査を手伝ってくれと言ってきました。原爆記録映画は日本がまさに米軍のために作った記録映画ですけど、それで彼の元で勉強を始めた。毎日中島さんと議論して、かなり詳しい年表をまず作りました。わかった限りの資料から原爆調査に関する日米間の動きを克明に時系列でたどり、縦軸と横軸を絡ませて年表を作りました。その過程でふっと「これ何だろう」ということがありました。
具体的に言いますと、原爆投下後の日本軍による調査に関して、日本国内で原爆被害報道がほとんどされなかったことは知っていましたが、海外のメディア、特にアメリカの新聞を見ていたら、原爆被害が報道されているんですが、それが日本発の情報なんです。同盟通信社(現在の共同通信の前身、国策通信社)、ラジオ東京(NHK海外放送の前身)からの情報というクレジットが記事に入っているんです。これはなんだろうというのが最初でした。なぜ日本から原爆被害情報がアメリカに流れているのか……。(中略)
日本はポツダム宣言を受け入れたのだから、占領軍が進駐してくることもわかっているわけです。連合国軍(マッカーサーが連合国最高司令官と米太平洋陸軍総司令官を兼務)の中核は米軍で、原爆を作って投下した軍隊ですよね。それがわかってて、なぜ、その軍隊が使った大量殺戮兵器である原爆の効果を、被害を受けた国家が調べ続けようとしたか。これは戦争を考える時の一つのキーポイントです。こういうことは普通は絶対ありえない。(中略)なぜ日本側はその常識を無視したのか。そこにはすでに、敵軍のマッカーサー軍と協力するという含みがあったんですよ。つまり、マッカーサーに対して「新兵器を使ったでしょ、効果を知りたいでしょ。一番知りたいのは人間に対して原爆がどういう効果があるかを知りたいでしょ。わかりました、私たちが調べます」ということです。だから米占領軍が来るのを待って、日本側が調査継続していったということです。これが一つのポイントです。
さらにもう少し:
また、非常に重要なことですが、マッカーサーがいつこの原子爆弾災害調査特別委員会の結成を知り、結成を容認したかを知りたい。でもそれに関してマッカーサー側の記録もない。一番大事な情報は為政者同士ですっと消しちゃうということでしょう。マッカーサーが容認したことははっきりしている。さっきも言ったように、戦勝国による占領統治の常識で言えば、勝者が負けた側にそんな新兵器の効果調査を許すなんてありえないんです、どんな戦争であっても。
それを問題にしなかった、今まで日本で語られてきたヒロシマ・ナガサキの思想って何だ、ということにもなるわけです。最初から丸ごと相手に全てを売り払っておいて、そのことは黙ってきたんですよ。これをどう理解したらいいか……。10年経っても今もってなかなかうまく言葉に出てこない。
彼ら第一線の科学者が、マッカーサーのために行う調査の意味をわからないはずがない。どんな屈辱を感じたか。そのことをなんで言わないか。人間として、個人として、そういう屈辱感を言えないよう縛られてきたのは、それが国家の命令だからです。そのことを逆証明しているのが報告書に関わる問題なんです。科学者たちは自分たちが調べた報告をまず日本語原稿にし、それをタイプして英文原稿にする。その英文原稿はマッカーサー(GHQ)に提出します。報告書を英文にして日本語と同時に提出するよう命令されていたから、彼らはそれを忠実に行った。……(中略)……
でもみんな黙っているんだったら、僕のように後からきた人間はその歴史に入り込めないわけよ。自分たちの報告書をマッカーサーに渡せるかといって、死に物狂いで抵抗しようとした人がどうして一人もいなかったのか……。ちなみにマッカーサーからは、英文の報告書を1部作り、日本語を5部作るように命令が入っている。その命令に対してみな実に忠実に従っている。それで英文の報告書はGHQのファイルに残っているのです。180本以上も。見事なまでです。この荒廃というのはひどいな。しかもそれに対して、当時最高の知性を持った人たちが、今もって口をつぐんでいる。
このインタビューはかなりボリュームがあるが、情報量も多く、NHKの番組で触れられていなかった/ごまかされていたディテールも満載だ。例えばNHKがナレーションで「都築教授と陸軍が協力」と言っていた都築教授(帝大)は「海軍軍医中将」だったことなど。
笹本さんのインタビューの後半では、数少ない入手できる資料からさらに深いところに踏み込んでゆく。
http://www.csij.org/archives/2007/02/interview5_1.html
今の予算の話に関連して言えば、原子爆弾影響研究所とABCCが行った、遺伝計画を含めた当時の1947年から1951年までの調査に日本側の使ったお金、原子爆弾影響研究費と言いますが、それがしめて3000万円以上とあって、厚生省は当時の1951年度の国立予防衛生研究所の年報に公表しています。3000万円といえば、巨額な金ですよ。ところが、その公表されている事実も、僕がこの本に書くまで誰も取り上げて問題化しなかった。この問題は大きいです。触れなかったことは、いろんなことを意味します。典型的には、広島市と長崎市が編集主体になって1975年に発行した『広島・長崎の原爆災害』(岩波書店)でも、この点には一切触れていません。この本は1975年までの研究の集大成なのに。でも、その後も誰も触れていない。なぜ触れなかったかということを、僕はこれから問題にしていこうと思う。……中略……知っていて踏み込まない、これを確信犯といい、共犯者なんです。確信的共犯者、刑法の用語では共同正犯といいます。そういう状況が続いている。だから広島市及び長崎市は地方自治体として、国の原爆調査との関係においてそれぞれの責任を明確にし、無限責任を取るようなことは言うべきではありません。市としてはここまでの責任しかない、ということをはっきりと言うべきです。
原爆をめぐるこの問題は、いわゆる日米安保体制下における日米の従属関係とか、従来言われているそんなことじゃないんです。1945年の敗戦・占領の時点から、日米は原爆問題をめぐってこういう関係になっていた。このことは一体どう表現したらよいのでしょうね。アメリカ政府だけでなく、日本政府もこれだけ被害者を侮辱し、屈辱を味合わせて、なおかつ自分たちが繁栄する体制を築いた。これをどういう言葉で表わしたらいいか、まだ見つからない。
このインタビューを行ったNPO市民科学研究室さんの今年8月2日付のブログによると、NHKの「封印された原爆報告書」の制作にはこの笹本さんも協力したが、ご本人は残念なことに今年4月に他界されたとのこと。合掌
6日に番組を見ていたときの自分のtweets:
nofrills 原爆の医学的被害を調査するのは日本人、アメリカはその報告を受け取った、という事実が、単に「アメリカはそんなひどいことをしたのか、ひどい国だな」で片付けられると思えるのはナイーヴだわね。 at 08/06 22:21
nofrills #NHK 総合「NHKスペシャル、封印された原爆報告書」超GJ。終戦/敗戦直後の日本の軍部と米国のいわば「共犯関係」を当事者の口から。 at 08/06 22:23
nofrills Disgusting. They call it an "association". #NHK スペシャルの「封印された原爆報告書」でのヤマザキ教授(米国人)の発言から。「広島の子供たちの犠牲がなければ原爆での死亡率曲線は得られなかった。日本の協力の賜物」と。 at 08/06 22:29
nofrills #NHK スペシャルの「封印された原爆報告書」、超GJ。今の解剖の映像、よく出したな。 at 08/06 22:33
nofrills ああ、ひどい。 at 08/06 22:36
nofrills 被爆した少女が死に、医師が解剖したいと言った。兄は「他の被爆者の役に立つのなら」(治療のために)ということで了承した。それっきり、妹の遺体は帰ってこなかった。そして今、長崎大学でプレパラート標本となった彼女と対面する兄の息子(甥)。#NHK 「封印された原爆報告書」 at 08/06 22:40
nofrills 当事者への取材、すごい内容。再放送要チェック。 / NHKスペシャル|封印された原爆報告書 〜知られざる日本の思惑に迫る〜(仮) http://htn.to/3RVqMg at 08/06 22:51
nofrills 自分は広島・長崎の出身ではないのだが、たまたま8月6日が登校日という学校に通い、公共施設での原爆写真展を見に行ったりしていた。で、小学校の時に既に被爆者の健康調査の話は知っていたのだが(壁新聞を作ったりした)、それがここまで徹底的に「医療」とは関係なかったとは今まで知らなかった。 at 08/06 22:57
※この記事は
2010年08月13日
にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。
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