「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2010年07月11日

1995年7月11日から15年。スレブレニツァで式典が行われている。



スレブレニツァの民族浄化目的の集団殺害が始まってちょうど15年、式典などについての記事。ICTYに送られているカラジッチの創設した政党は、昨日、「過去を恥じてはいない」としてカラジッチを顕彰。 / Bosnia marks ... http://htn.to/7qN9Vr
http://twitter.com/nofrills/status/18259190980

日曜、既に約4000人が埋葬されているポトカリ墓地での式典で新たに775人が埋葬される。80代のマヒッチ夫妻はようやく2人の息子を埋葬できる。「一家全員殺されていればこんな思いをすることはなかったのに」。 / BBC News ... http://htn.to/LQeDB6
http://twitter.com/nofrills/status/18259683825

1995年7月10or11日、スレブレニツァに入るラトコ・ムラディチの部隊の映像、Bosnian Serb側のニュース。続いて10日の町の様子。家庭用ビデオカメラの撮影。 / YouTube - Srebrenica 11... http://htn.to/JPxH1P
http://twitter.com/nofrills/status/18269474314

2008年公開の英Journeyman Picturesのドキュメンタリー冒頭10分。旧ユーゴ国際戦犯法廷によってスレブレニツァ虐殺調査担当に任命されたフランス人警察官。http://bit.ly/chrkjW で全編見られる(£1)。 http://htn.to/3ayUKd
http://twitter.com/nofrills/status/18103904615

15年前、平和維持部隊の一員だったオランダ人のZomerさんは、今スレブレニツァに暮らす。自然豊かな場所だから、と。地元の人たちの「あの時うちの家族を守ろうとしてくれてありがとう」という言葉に心の傷が癒された / BBC News ... http://htn.to/et1g4w
http://twitter.com/nofrills/status/18101220749

http://htn.to/et1g4w このBBC記事めちゃくちゃ重い。誰の言葉もその通りではない。書いた記者はそれをわかっててそのまま淡々と書いている。「分断」は今もそこに口をあけている。
http://twitter.com/nofrills/status/18101712402


※この記事は

2010年07月11日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:15 | TrackBack(0) | 雑多に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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