kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2010年07月03日

『密使 若泉敬』――「その解放は日本の独立を完成する」 vs 「日本側を多少不安にさせれば…アメリカはより有利に交渉を進めやすくなります」

【追記@7月26日】7月31日(土)の午後4時過ぎから、再放送があります。




6月19日、サッカーW杯の日本対オランダの試合の裏という最悪のタイミングで放送されたNHKスペシャル、「密使 若泉敬 沖縄返還の代償」を、NHKオンデマンドで見た(315円)。「見逃し番組」の扱いで、購入期限は今日(7月3日)までなので、まだご覧になってない方は急いでどうぞ。55分。
http://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2010017318SC000/

他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス 〈新装版〉

他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス 〈新装版〉

  • 作者: 若泉 敬
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2009/10/29
  • メディア: 単行本


「沖縄核密約」を背負って 若泉敬の生涯

「沖縄核密約」を背負って 若泉敬の生涯

  • 作者: 後藤 乾一
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2010/01/23
  • メディア: 単行本


沖縄密約―「情報犯罪」と日米同盟 (岩波新書)

沖縄密約―「情報犯罪」と日米同盟 (岩波新書)

  • 作者: 西山 太吉
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2007/05
  • メディア: 新書


密約―外務省機密漏洩事件 (岩波現代文庫)

密約―外務省機密漏洩事件 (岩波現代文庫)

  • 作者: 澤地 久枝
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2006/08
  • メディア: 文庫



以下、番組の内容のメモ。

▼導入部開始。

ナレーション:
沖縄にある国立戦没者墓苑。(→国立戦没者墓苑の映像)

今から14年前(1996年)の6月、ここにひざまずいて祈り続ける一人の男の姿がありました。(→その写真)

男の名は、若泉敬(わかいずみ けい)。40年前、沖縄返還をめぐる極秘の交渉に当たった人物です。沖縄に対する『結果責任』を取ると言い残し、この1ヵ月後、自ら命を絶ちました。

「判例」の背表紙が並ぶ前に座っている人(弁護士さん):
何か薬のような錠剤、白い錠剤を飲まれたな、と思ったら、あっという間に吐かれて、苦しまれたんですよね。

ナレーション:
若泉が関わった、1969年の日米首脳会談。(→その会談の資料映像。米国はリチャード・ニクソン大統領、日本は佐藤栄作首相)

当時のニクソン大統領と佐藤栄作総理大臣の間で、沖縄返還が合意されました。

(→資料庫の映像。)このときの若泉の役割を記した機密文書が、アメリカに残されていました。佐藤がアメリカの高官に宛てた信任状です。若泉は佐藤から、アメリカの政権の中枢と交渉をまとめることを託された「秘密の代理人」、「密使」だったのです。



(→フォルダの中身の映像。Dr. Walt W. Rostow宛て、Eisaku Sato署名の書簡。1967年11月9日。「私の個人的な秘密の代理人として、若泉敬教授を紹介申しあげます。私は来週そちらにうかがうことになっていますが、その際に、われわれ相互の利害の問題について、若泉教授と率直な意見交換をしていただければと思います」。)

(→佐藤栄作の家での取材の映像。)若泉が作った沖縄返還の密約文書。去年、佐藤の自宅に残されていたことが明らかになりました。

(→佐藤栄作の息子さんが封筒から書類を取り出し、広げる。Washington, D.C., November 19, 1969の日付の下に、Richard NixonとEisaku Satoの署名。)



沖縄返還の条件として、有事の際には核兵器を持ち込むことを認める内容が記されていました。(→その書類の別な映像。)



(→米国の事務所を訪ねる映像。)当時交渉に当たったアメリカ政府高官です。実は沖縄返還で、核以上に重要な成果を勝ち取っていたことを、今回明らかにしました。……

(→沖縄の基地の映像。)変換から38年経った今も、在日米軍基地の74パーセントが集中する沖縄。(→轟音を上げて低空飛行する戦闘機、校庭で耳をふさぐ学童3人、住宅街の上を轟音を上げて低空飛行していく戦闘機……)

若泉が、密約前結んで果たした沖縄返還。結果として基地の固定化に繋がったのです。

秘密交渉から25年、死の直前に若泉は交渉の全てを明かす書籍を発表していました。なぜ国家機密を公表し、死を選んだのか(→友人宅を訪れる取材陣の映像。)長年口を閉ざしていた関係者が今回初めて取材に応じました。(→ファイルから紙を取り出す男性。「これは、若泉先生のお手紙ですか」、「はいそうです」という取材陣とのやり取り。)

(→一面に広げられた手紙の映像。)関係者に宛てられた200通を超える手紙から、若泉が一向に改善されない沖縄の現状をどうとらえていたかがはじめてわかりました。手紙に綴られていたのはみずから行った交渉に対する自責の念、そして沖縄の問題に向き合おうとしない人々への絶望でした。

密使、若泉敬。その知られざる空白の生涯から沖縄の基地問題の原点を見つめます。



▲ここまでが導入部。

ナレーション:
(→高速道路を走る車の中からの映像。取材陣が取材先に向かっている。)若泉系の故郷、福井です。

(→ものすごく立派な木の扉についた古めかしい鉄製の錠を開錠し、家に入る男性=晩年の若泉と深い交流があり、家の管理を任されている地元の商工会議所の専務理事、鰐渕信一さん)若泉が、晩年をすごした自宅。若泉は66歳の時、この家で自ら命を絶ちました。


ここでカメラが邸内に入る。部屋には人形ケースやカレンダーなどがそのまま残っている。壁にはベルリンの壁に大勢の人々が乗っている写真があり、カレンダーは「7月」。若泉がなくなったのは1996年7月だ。





商工会議所の理事さんは「若泉が使っていた2階の書斎」に足を踏み入れる。明るい窓に面したシンプルな木の机にZライト。返還交渉の舞台裏を明かす本を書いた机の上には、筆記用具・文具、ルーペなどがそのまま置かれている。左手のふすまには何かカレンダーのようなものが張られていて、今も人が使っている部屋のようにも見えるが、隣の部屋の障子は剥がれてぼろぼろだ。机の上に置かれたティッシュのケースが今はもうこういう普通のティッシュでは見なくなった高さだ(「カシミア」とかの高級ティッシュならこの大きさだね)。







ナレーション:
若泉は亡くなる前に、日記やメモなど、30,000点に及ぶ資料を処分していました。(→空っぽの書庫の映像。)棚に貼られた新聞の切り抜きが、あるじの痕跡をわずかにとどめていました。



商工会議所の理事長さん:
「これは、あの、沖縄の慰霊の日の記事ですね。沖縄のことについては、常にその、何ていうんですか、事情を常に把握されておられたと思いますので……まああの、沖縄のことは、返還後も気にかけておられたということだと思いますね」


1945年の沖縄戦の映像と、説明のナレーション。「民間人を含めおよそ20万人が命を落とした戦闘」、「敗戦後はアメリカの統治下に」、「土地を接収され、沖縄本島の5分の1が基地で占められました」。

ナレーション:
若泉の、わずかな遺品として残されていた一枚の写真。本土復帰を訴える沖縄の女性の写真でした。アメリカの統治のもとで禁じられた、日の丸を掲げて立つ女性。写真には切抜きが添えられていました――「小指の痛みを全身の痛みと感じてほしい」。沖縄の痛みを本土にも受け止めてほしいという復帰運動のスローガンでした。


この「小指の痛みを……」は、若泉本人が、新聞か雑誌(ゴシック体なので恐らくは雑誌)から切り抜いて、行分けして、糊で貼り付けたのだろう。几帳面に、きれいに貼られている。この言葉はこの写真とセットになっていた記事の一節だろうか。



最後の「こう訴えた。」の文字列の下に何か文字があるようだが、そこは番組がつっこまなかったのでわからない。



写真の上には「その解放は日本の独立を完成する」というスローガンがある。



「その解放は日本の独立を完成する」。このスローガンを過去のものとして見ることができないのが2010年の現実だが(ほんの数分前にこの番組で流れた「轟音で超低空飛行の戦闘機」の映像を思い出すだけでよいだろう)、NHKのこの番組はそういったことは見ている側に任せるように、淡々と若泉敬という人を描いていく。

続いて、1965年の佐藤栄作首相の沖縄訪問の資料映像。佐藤首相のスピーチ、「わたくしは沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後が終わっていないことをよく承知しております」。佐藤政権の最大公約が沖縄返還だった。戦後20年、沖縄返還は復興を遂げた日本にとっての悲願だった。

(※ここらへんから、効果のための音楽がうるさい。集中力が途切れる感情的な音。)

最大の懸案は沖縄の米軍基地に配備されていた核の撤去。「非核三原則」との兼ね合い。外務省が始めた交渉は難航していた。そこで佐藤首相から密使として選ばれたのが若泉。当時39歳。東大卒、防衛庁や米国のシンクタンクで研究を続ける若手の国際政治学者だった。

ここで1968年、TBSの「おはよう・にっぽん」という討論番組に出演している若泉の映像。



左派の大島渚を相手に安保の話をする彼の横には、中曽根康弘の姿もある。



若泉(大まかな発言):
「大島さん、安保条約に欠点があることは私も認める。問題は『これが絶対』でほかは全部ダメ、なんてことは今の世界情勢では誰も言えない」

大島渚:
「ぼくもそう思います」

若泉:
「そうでしょう? 一切武装を持たずに……」(フェードアウト)

ナレーション:
外交や安全保障に詳しい保守派の論客として脚光を浴びていました。


若泉は日本がアメリカと対等な関係に立つこと、敗戦国日本が真の独立国になるためには、沖縄を取り戻すことが必要だと考えていた。当時の若泉のスピーチの録音(1969年)。

若泉:
「沖縄問題の本質は何かと言いますと、これは我々日本人の立場からすればですね、日本の領土問題であり、日本の国民感情の問題で、沖縄100万の人々の人権の問題であり、従って当然アメリカに向かってですね、早く返してくれということを要求すべきであるし、していい問題だと、私自身は考えております。」


そしてナレーション「若泉の強みは、留学で培った広い人脈でした。民間人でありながら、アメリカの政府要人と強いつながりを持っていました」に重ねて、ジョンソン大統領と若泉が真剣に話をしているところらしい写真(番組紹介ページの左上にあるもの)。そしてそれゆえに、外務省の公式ルートからではわからないアメリカの意向をつかむことを、佐藤首相から託された、と。

そして若泉がワシントン入りしたのが1969年7月。そしてホワイトハウスにいる留学時代の友人に接触した。その友人が、国家安全保障会議(外交・軍事の方針を決める)のモートン・ハルペリン。ハーバード大研究者からホワイトハウスに入り、NSCの主要メンバー。

番組では触れていなかったが、この人はACLUとかOpen Society Instituteでの活動でも知られる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Morton_Halperin

このときの中心の議題が、「沖縄返還にあたり、米国は核を撤去できるのかどうか」という問題だった。ハルペリンは「核の再持ち込みが必要な時にはそれを日本が認めることもありうる、という明確な了解が必要になるのではないか。せめて両国首脳間での秘密の了解事項とでもしておかないと、議会や軍部を説得できない」(若泉の著書より)と述べた。つまり、核はいったんは撤去するにせよ、有事の際には再度持ち込むという「密約」の提示。

これに対して若泉は、著書で「私は気が重くなった。秘密協定など、こんにちの日本で可能なわけがないではないか」と述懐している。

ナレーション:
その後4ヶ月に及ぶ交渉でも、アメリカは核についての強硬な姿勢を変えませんでした。若泉は密約に応じなければ返還交渉そのものが破綻すると考えるようになりました。

若泉(著書からだと思う):
これなくしては、日本の固有の領土沖縄と、そこに住む百万同胞は、「核抜き」という日本の基本的条件下で祖国に還ってくることはないのだ。このことが、今日本政府が直面している不可避の現実なのだ。

「歴史は繰り返す」というか、ね。北朝鮮がやれば「瀬戸際外交」と呼ばれるのだろうし、イランがやれば、あるいは少し前までのリビアがやれば「開き直り」などと呼ばれるのだろうけれども。

そして「苦しい決断」(ナレーション。映像は首相官邸)。1969年11月6日。時代打開のため、若泉は佐藤に(核の持込についての)密約を結ぶよう進言。若泉はその文書を具体的にどういう形式にすればよいかという提案まで佐藤首相に行ない、佐藤は「向こうは絶対に外部には出さんだろうな」と問いただし……との経緯。そして最終的に佐藤はすべてを若泉にまかせた。

若泉はキッシンジャー大統領補佐官(ニクソンの側近)と協議を重ね、その後ニクソンと佐藤の間で密約を結ばせ、沖縄返還の道筋を作った。

それから40年後の去年、政府が否定し続けてきた密約文書が佐藤家に残っていることが明らかとなった。佐藤栄作の息子さんが語るに、ニクソンとキッシンジャーと佐藤栄作と若泉の4人しか知らない文書。それが番組の冒頭、導入部で示された1969年11月19日のニクソンと佐藤の署名入りの文書だ。佐藤の死後、遺品を整理するなかで机の中から見つかったという。TOP SECRETと書かれたその文書は、沖縄返還後も有事の際には核兵器を再び持ち込む、と書かれている。

佐藤さん:
「父から、こういうものがあるということを言ったことはないんです。」

「本当のことは本当のこととして残す我々に責任があるだろうと」

そして番組は、1972年5月15日の「沖縄復帰記念式典」の映像へと進み、さらに佐藤首相は「沖縄に残されたアメリカ軍基地について段階的に縮小するという姿勢を示して」(ナレーションより)いた。そして若泉は、まずは沖縄返還を実現できたことに「達成感を噛み締めてい」た。

若泉:
私は、筆舌に尽くせない辛苦辛労をしのいできた沖縄の無名の人々を思った。「早く日の丸を掲げたい、本土の人に、小指の痛みを全身の痛みと感じてほしい」と訴えた一老人の面影が、眼前に浮かんだ。


ここまでで21分。この54分の番組はここからが本領だ。

若泉が気づいていなかったアメリカ側のしたたかな思惑。「それを示す機密資料が米国の公文書館に残されていました」として、取材カメラがナショナル・アーカイヴに入る。

※日本はこういう文書の保管と公開についての仕組みがねぇ……。

1969年5月28日付のNational Security Councilの文書が示される。「沖縄返還交渉の基本戦略を示した文書」、National Security Decision Memorandum 13 (NSDM 13) である。

ナレーション:
アメリカが最も重視していたのは、沖縄に核を置き続けることではありませんでした。

文書 NSDM 13:
「満足のいく合意が得られれば、大統領は交渉の最終段階で核兵器の撤去を考慮する用意がある。

ナレーション:
(1969年5月28日、つまり)返還合意の半年前、既に決められていた方針でした。


つまり、当時の技術の進展で、極東情勢について別に沖縄に核を置いておかなくてもよくなった(どこからでも核ミサイルを発射できる体勢が整いつつあった)。しかし核の撤去の方針を最後まで明かさなかった目的は何か。

文書 NSDM 13:
「日本の軍事基地を、朝鮮半島、台湾、ベトナムとの関連において、最大限、自由に使用できることを希望する」


当時はベトナム戦争中。米軍にとって「沖縄の基地は不可欠な拠点」(ナレーション)だった。

ナレーション:
返還後も基地を自由に使用することを日本に認めさせるため、アメリカは核の撤去を交渉カードに使ったのです。


そして取材班は、この文書を作成した人物のもとを訪ねる。後年明らかになったその人物とは、「若泉の交渉相手で友人でもあった、あの、モートン・ハルペリンでした」(ナレーション)。

ハルペリンは今回、NHKの取材班に若泉との交渉での戦略について詳しく語った。

ハルペリン:
「我々の最大の狙いは、アメリカが核の撤去を受け入れる条件として、軍事行動のための、できるだけ柔軟な基地の使用を日本に認めさせることでした。」
The main issue, once we accepted that the nuclear weapons had to go, was to get as much flexibility for conventional combat operations as we could *inaudible*.

「我々が極東で展開するすべての軍事戦略は、日本にある米軍基地に依存していたからです。」
All of our military contingency planning for a war in Taiwan straits or in North Korea, depended on the American military bases in Japan.


つまり、沖縄が米国のものでなくなってしまったら、よその国の領土を使うってわけにはいかないので出て行きましょう、ということではなく、それでも何とかしてそこを使わないとやっていけないのでっていって、何とか使い続けるために交渉の作戦を立てた、と。

しかし日本の人々は完全に一杯食わされたままだったということを番組は遠回しに伝える。当時、日本では「空母エンタープライズ入港」とかがあるたびに、核兵器が持ち込まれているのではないかということで激しい反発が起きていた(ヘルメットにサングラスにタオルの人々と機動隊の資料映像)。レッドへリングに引っかかっていたということだ。ナレーションは「唯一の被爆国日本の反核感情を計算に入れて、アメリカは交渉に臨んでいました」と言う。

ハルペリン:
「日本政府は次第に核問題について神経質になっていきました。沖縄から核を取り除く明確な合意をアメリカ政府に強く求めたのです」
But the Japanese government got increasingly nervous about the nuclear issue. Because the Japanese kept saying, "we need to have an understanding that you will take the nuclear weapons out of Okinawa."

「日本側を多少不安に (somewhat uneasy) させれば、他の問題についてアメリカはより有利に (favorable terms) 交渉を進めやすくなります」



番組は、1972年5月15日付(返還当日)に日米両政府が交わした「日米合同委員会覚書」へと進む。重ねられた書類の右肩に「25日の総理・大田知事会談終了後使用可」(詳細は下記参照)などとあるものだ。これについては琉球新報などで詳しく報じられているので検索を。例えば下記の記事。

「5・15メモ」本紙が入手 48施設の使用条件覚書
1997年 3月7日
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-86128-storytopic-86.html
政府は、今月中旬の橋本竜太郎首相と大田昌秀知事の会談の際に同メモを公表する方向で、外務省、防衛施設庁を中心に作業を急いでいる。全面公開には米側が難色を示しており、どの程度公開されるか注目される。

「5・15メモ」とは 1972年5月15日の復帰の際、日米合同委員会で在沖米軍施設の使用条件などを取り決めた文書。合意内容は国際間の秘密事項であるとして公表されなかった。その後、地元の了解なしに取り決められた同メモの存在が発覚。公表を求める声が高まり78年5月、防衛施設庁は県内22施設および本土6施設の使用条件などの概要を公表した。県は公表された部分以外の使用条件なども公表するよう政府に要請してきた。


この覚書において、嘉手納、普天間など沖縄88箇所の基地のほとんどについて、沖縄返還前と同じように、「使用期間:無制限 (Duration of requirement: Indefinite) 」という取り決めがなされていた。







2000年代に米軍の占領を経験することになったある国(<どこか書かなくてもわかると思うけど)の人とメールのやり取りなどしていたときに、「米国の横暴(=原爆投下のこと)をものともしなかった日本の戦後復興ちょーすげーって前政権のときにみんな学校で習ったよ。ソニー、トヨタ、ファイナルファンタジー」みたいな流れになって、「日本は米軍基地が恒久化してるってことは習ってないんだね」と返事したんだっけな……ともあれ、占領というものについて少し話をしかけたことはある。でも私の知識と能力と時間的余裕では、まともな話として続けることはできなかったんだけど。(^^;)

ハルペリン:
「アメリカの外交的勝利は、アジアでの戦争のために日本の基地をより自由に使えるようにしたことでした」
One of the US diplomatic victory was to get (an?) agreement on the greater use of *inaudible* free use of the US bases not only in Okinawa but in Japan in an event of *inaudible (due to this BLOODY BACKGROUND MUSIC!)*

「返還によって結果的にアメリカは日本との同盟関係をより強化することができました。これがその後現在まで続く日米関係の原点となったのです」


その後、1974年に、佐藤栄作は「非核三原則」を評価されてノーベル平和賞を受賞した。ベトナム戦争に協力しててももらえる「平和賞」。同時にまったく別のことで受賞したのがショーン・マクブライドだ(アムネスティ・インターナショナル創設者……というだけではとても足らないのだが、ここでは本題ではないので割愛)というのが皮肉。

そして、「密約」について明かすことなく、翌1975年に佐藤栄作は死去。若泉敬は佐藤の死後も沈黙を守っていたが、いずれかの時点で(番組ではいつかは明示していない)佐藤宅を訪問し、佐藤栄作の首相在任中の日記を見ててほしいと申し入れた。

そして密約の交渉をすべて任せると言われた1969年11月6日(若泉が最も重要だと考えた日)の日記を見て、若泉は愕然としたようだ。沖縄について書かれていたのは「沖縄やその他、二、三の連中が、余の激励にやってくる」だけだった。日記を読み進めるうちに、若泉の態度が変化していくことに、佐藤家の人々は気づいた。そのことについて、佐藤栄作の息子さん(佐藤信二さん)は「こちらの推測だが、もっと書きようがあったと思われたのではないか、また、話が違うと思われたのではないか」とコメントしている。

後に若泉は、「佐藤日記」の記述について「そのときの総理と私との会話や雰囲気について、私の留めた記録と記憶に若干反している感を否めないのである。歴史上の記録から欠落してしまったのは残念である」と書いている(おそらく著書からの引用)。

そして、「やがて若泉は中央政界から距離を置き、表舞台から姿を消して」いった(ナレーション)。

番組は進む。1992年5月、沖縄返還20周年記念式典の映像。ヘンリー・キッシンジャーが来ているほか、当時のトップ政治家たち(福田赳夫、鈴木善行、中曽根康弘、竹下登、宇野そうすけ…だよね、海部俊樹)。このときの会場を撮影した写真に、12年ぶりに表に出てきた若泉の姿がある。また、あわせて開催された沖縄返還を検証する会議にも、若泉は研究者として出席。その席上でアメリカ側の機密資料、「国家安全保障決定覚書 (NSDM 13号)」が開示された。核の撤去をカードに、基地の自由使用を勝ち取ったあの文書だった。この席上で文書を配布したのは、立案したモートン・ハルペリン自身だった。

ナレーション:
若泉は、この戦略の全貌を初めて知り、愕然としたといいます。

若泉(回想):
「ハルペリンとのたびたびの会見をもちながらも、残念ながらその感触すらつかめなかった。それは私ばかりではなかった。日本政府も、誰一人としてその時点では正確には知らなかったといってよいだろう。」


とにかく、まずは返還と思ってやったことが、結果的に、基地の固定化を招くことになった。自分のしたことに疑問を持ち始めた若泉が何を考えどう行動したのか、今回、友人への手紙などからそれが明らかになった。

大学時代からの友人の福留民夫さんが受け取った若泉からの手紙・はがき。

若泉は基地の固定化の責任は自分にもあると考え、何度も沖縄に足を運んでいた。戦闘が激しかった沖縄本島南部には必ず行っていた。戦後、住民が最初に立てた慰霊碑、魂魄の塔。

ナレーション:
本土を守るためとして唯一住民を巻き込む戦場となった沖縄。返還後も歴代政権によって基地の集中が改善されることはありませんでした。若泉の目に映ったのは、戦後も本土のために一方的に負担を背負わされている沖縄の姿でした。


沖縄に対する「済まない」という気持ち。戦争であんなに大勢が死に、その後も基地という問題が改善されない、その中で「済まない」という思いが「だんだん彼の心にずっと深く食い込んでいったと思うんです」と、若泉の友人である福留さんは語る。

ナレーション:
若泉は、平和を享受しながら沖縄に目を向けようとしない本土のことを「愚者の楽園(フールズ・パラダイス)」と呼び、ある決断をしました。



そして彼は、生涯秘密とするつもりだった沖縄返還交渉のすべてを明かすことにした。1994年5月、著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(ほかに方法がなかったと信じたい)を発表。

出版前、編集者に宛てて「もうそろそろ時効だろうしということで、世によくある『今だから語ろう』といった類の出版にはわたしはどうしてもしたくないのであります(そのようなものなら、今からでも公刊は一切取りやめたい心算であります)」という手紙を書いた。つまり、1994年という時期には本当にあちこちにあふれていたと思うが、「真相激白」とか「暴露本」といったセンセーショナルな扱いを前提とする形は欲していなかった。

若泉:
「歴史への、ささやかながらも“一寄与”として、拙書を公刊していただきたい」


若林の顧問弁護士だった田宮甫(はじめ)さんは、若林は本を出すことで国会に呼ばれることを覚悟していたと語る。それによって関心が高まり、日本の人々が問題意識を持つのではないか、ということを言っていたのだ、と。

しかし政府は若泉が明かした沖縄返還の密約を真っ向から否定した。1994年5月の柿沢外相(当時)の会見で「そのような密約は存在しない」という部分の映像が流される。(うちらは「密約が存在しない」んじゃなくて「密約を記録した文書は存在しない」程度じゃねーの、どうせ、って世間話にしてた。)

当時外務事務次官だった斉藤邦彦さんは番組の取材に「もう、済んだ問題だ、っていう感じがみんなにあったと思います。とにかく沖縄が『核抜き・本土並み』でかえってきた、っていうのはもう実現しちゃってるわけですよね。『これは大変だ、何とかしなきゃいけない』という感じは私は持ちませんでしたし、外務省全体としても同じ感じ方だったと思います」と語る。

国会で密約について質問がされることもなく、基地問題について社会の関心が高まることもなかった。

その頃、若泉は(多分友人への)手紙で「拙著は“無視黙殺”された」、「政治家、官僚、学者、その他みんな逃げてしまいました」ということを、かなり激しい口調でぶちまけている。

福井に住む長年の友人の堂下さんは直接若泉の気持ちを聞いていた。「失意失望ですよ。結局形の上では“私の昔のやった仕事を公表しただけで終わってしまうのか”と。“そういうことではなかったんだ。公表はいつでもできた。だけどあれを書くことによって、日本国民の目を覚まさせる、どんな立場にいてどうしなきゃいかんのか、これからの日本をどういうふうに舵とっていくのかということをね、真剣に考えてほしかったんだ”と、そういうことを言っていた。けれども国会は無視してしまう。沖縄の県議会でさえも『ちょっと来い』っていう言葉もない。“なんでこうなんだろう”、“私の筆不足なのだろうか”と……」。

若泉が本を出した翌年、1995年に沖縄では12歳の女の子が米海兵隊兵士に拉致され暴行されるというものすごくひどい事件が起き、大きく激しい基地反対運動が起きる。反対集会の映像などに、ナレーションは「基地に対する沖縄の怒りは頂点に達しました」。

画面に一面の新聞の切り抜きがうつる。若泉がスクラップしていたものだそうだ。自宅の書斎で見つかった。沖縄タイムス、琉球新報など沖縄の新聞も毎日取り寄せていた。







それら新聞のスプラップのなかに紛れ込んでいた「とっておき沖縄3日間」というパックツアーのチラシ。その旅程の文言について、若泉は憤りを爆発させたようなフセンのメモを貼り付けている。

“摩文仁の丘…「平和の礎」・福井の塔など見学”、“ひめゆりの塔見学”の文言に下線が引かれ、「三日目の最後に、摩文仁の丘へ行って『福井の塔』など見学、『ひめゆりの塔』見学と昼食とは……。観光地の見学でしかありません。欠落しているのは、米軍基地の見学です!」というメモ。

人々の無関心と、自責の念に苛まれる日々。6月23日(沖縄慰霊の日)に国立戦没者墓苑で慰霊碑の前に正座し、数珠をかけて合掌し、頭を垂れ拝む若泉の写真。

その様子を語る友人の鰐渕さん。「“本土復帰して、これでよかったんでしょうか”という思いがあり、沖縄に来て知り合った方に“ほんとによかったんですか”というようなことをよく問いかけておられた。返還をしたからそれで私の仕事は終わったということではなかった。沖縄の現状に対する『結果責任』というものも感じておられたのではないかと私は思います」。

このとき若泉は末期がんにおかされていた。責任の取り方を考え、彼が書いた手紙。「沖縄県の皆様、大田昌秀知事、関係各位」に宛てられたもの。「歴史に対して自分が負っている重い『結果責任』を取り」、自ら命を絶つとの内容だった。

大田昌秀元知事は「これは遺書と同じですね」と述べる。「思いつめたのでは。相当悩まれていたと思う。県に対する申し訳ないという気持ちの強さがひしひしと伝わってくるのだが、“結果責任”を取るなどということはなかなかできない。日本の政治家でそういう方がおられたかどうか、沖縄の立場からはおられなかったですね」。



1996年7月27日、本の英語版の翻訳出版の打ち合わせをし、髪を整えて背広を着てベッドの上に座った若泉は、周りの人たちに冷たい水を勧め、自身もコップで飲んだ。その時若泉は何かを口に含んだ。その場にいた友人の鰐渕さんは「自然な死に方ではなくて、自らが選ばれた死だというふうに私は思っています。間違いないことだと思います」と、無人となった若泉邸で語る。

若泉は亡くなる直前に知人に宛てた手紙に、「小指の痛みを全身の痛みとして……」の言葉のある写真のコピーが同封されていた。余白には「この写真が30年間、私の書斎に掲げてありました“心の支え”です」と書き込まれていた。

ナレーション:
沖縄返還から38年。基地は残り、沖縄はいまも負担を負い続けています。
(→米軍基地の映像……戦闘機、米兵。雨の中、雨合羽を着て基地を取り囲む人間の鎖の映像)

沖縄返還とは何だったのか。その代償を誰が払うのか。若泉の問いは私たちに突きつけられています。


※この記事は

2010年07月03日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼