「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2010年06月16日

Bloody Sunday dead all innocent

以下、淡々と記事をクリップ……その前に:

報告書そのもの:
http://report.bloody-sunday-inquiry.org/volume01/chapter001/

首相のステートメント:
http://www.number10.gov.uk/news/statements-and-articles/2010/06/pm-statement-on-saville-inquiry-51888

記事は、事件の背景とかこれまでの経緯とかをざっと把握してる人が読むならこれやね。あの日のデモの主催者だったバーナデット・デヴリン。
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2010/jun/15/bloody-sunday-british-government-soldiers

あと、リアルタイムでの記録。現場からのジャーナリストのtweetとかいろいろ。
http://togetter.com/li/29537

BBCの第一報。







http://nofrills.seesaa.net/article/153384489.html?1463700108

Bloody Sunday dead all innocent: tnfuk [today's news from uk ] via kwout
[コード消去・代替画面挿入/2016年5月]



デリー・ジャーナル。


ガーディアン、第一報の次。みなさんが破いているのは、これで晴れて「無効」となった、事件直後に出されたウィジャリー報告書(「デモ隊から発砲があったので、軍はそれに応戦した」という内容の結論)。あの報告書を無効とし、真実を公式の文書として世に知らせるために、ただそのために、38年を要した。



BBC Newsのトップ。


報告書については、私は概要をかろうじて読んだだけだが、正直、こんな程度の文書と英国首相の謝罪の一言のために、ご家族は38年も、古傷を「古傷」にすることも許されず、声を上げ続けねばならなかったのかということで、悔しくてならない。(サヴィル報告書公表の前日や前々日にメイルあたりで「あのような報告書が出れば古傷が」とかいう、ユニオニスト&英軍側のフザけた言説をまたぞろ犀再生産していたが、まったく恥を知れとしか言いようがない。虚偽の説明が公式に「正しい」とされているために古傷を「古傷」にできないからこそ、ご遺族はこれまで真相究明を求めて声を上げてこなければならなかったのだ)

なぜかというと、やはりどう見ても、肝心の部分でこれはかなりホワイトウォッシュに近いと言わざるをえないのだ。つまり事前の計画の有無や現場への指示について、軍の上層部の責任はないとする内容。そして、事件直後のウィジャリー調査委員会の滅茶苦茶でデタラメな内容の報告書も「カバーアップ(隠蔽)ではない」とする内容(「プッツンした兵士が勝手にデモ隊に発砲し、ばれるとまずいからといって虚偽の証言をした」ことが、事件後38年間にわたって「公式」な文書であり続けたウィジャリーのでたらめの原因、なのだということだ)。イラクのアブグレイブ刑務所での拷問(虐待)の最終的な結論が「現場の兵士が勝手にやったことで、上層部は責任なし」となったのと、質的には同じだ。

それでも、リアルタイムでBBCのストリーミングで聞いていたキャメロン首相の謝罪のスピーチは、その部分は真摯なものと聞こえたし(しかし後半の、特に「英軍は組織としては悪いことをしていない」と暗に主張した部分は論旨ぐだぐだで例によって例の如しの「英国らしさ」満載だった)、ギルドホールから出てきた被害者・ご家族の皆さんの表情と、ギルドホール前の広場を埋め尽くしたデリーの人々の歓声と拍手の前には、私には口にすべき言葉など、ない。今は。

※この記事は

2010年06月16日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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